ドゥルーズ、聖書にしてないか

「ファッションも、哲学もとんちが必要や。今、社会に必要なのはとんちやで」とアウトドアの帽子を被りながら、親友は言った。おもしろい奴だった。次の日に会えば、鼻ピを開けていて、ジャマイカ人と付き合ったと言い出すような奴で、それでいて瞑想しながらドゥルーズと会話しているような奴。会う度に、想像を超えたことを言ってきて、いつも先を走っていた。

「これはこうでこうだからこうだ」と言えば、親友はそうじゃないとは言わずに、私を彼と同じ土壌まで先導して、奥に潜む林へと連れて行った。見ていた景色が晴れて、スコンと一本道を昇るように、わたしたちは話した。言葉は薪になって、会話を熾(いこ)す。

私は行き止まり、立ち止まり、完結させ、断ち切る。彼はそこから私を連れ出す。そのときの私は自分で入った牢屋に籠城し、親友が助けに来るのを待っているようにも見えた。実は、自分の城が牢屋で、それも砂であることに気づかされるのは快感だ。砂嵐に覆われたビジョンの明度が上がり、画面の解像度が上がる。砂の隙間を縫って今まで見えなかったモノが目に飛び込み始める。見えなかった、見えなかったわけではなかった。見えなくしただけで。

ある日、友人に「大丈夫か?ドゥルーズを聖書にしていないか?」と言われたことがある。そのとき、私は、「おれのドゥルーズとお前のドゥルーズは違う」と言った。聖書になんざしていない。ただこれ以外に今は読む本がないのだと。分厚い、とんでもなく分厚い、千のプラトー菊判上下巻をバックパックにいつも忍ばせていた。

彼は元気にしているだろうか。今はなにをしているのだろう?私は就職した。悪びれもせず、サクッと就職して自分の生活を支えるために。生活を支える。人に後ろ指をさされるほど強くなかったし、社会人に憧れも抱いていたし、彼らに懐柔されたフリをしながら、ラディカルなことをしたいという欲望もあった。税金を払って文句を言ってやろう、無視できないように。社会人になったら、誰も文句は言えない。おれがやること、なすことは、社会名目上、自由だ。私は名目が欲しかった。だから、喜んで自由を差し出して奴隷になった。

喜んで。嘘だ。最後に親友と会ったのは、就職する前だ。私は泣いていた。ただ就職したと言うために。私は泣きながら奴隷になった。平然と暮らしたかった。それだけだ。普通に幸せになりたかった。ニーチェなんかを読みつつ就職した。文学に対する裏切りを感じながら、「生まれてから今まで背負ってきたモノなどないのだ」という言葉が胸に刻まれながら、幻想だからこそ背負うのだ、と嘯きながら。私は堕落する人間で、堕落しきれない人間だ。

泣きながら就職した。親友も泣いていた。しんどいと言えば、仕事を辞めろと言われるだろう。鬱になりそうだと言えば、仕事を辞めろと言われるだろう。正しい、一向に、正しい。「自我にしがみついているから仕事が辞めれない」と親友は言うだろう。「他にもっとやることがあるやろう」

心地よさを求めたいだけなのに、なぜ辛酸を舐めないといけない?バイトがよくて、就職がダメなのはなぜだ。誰かの責任という幻想を負わされるからだ。時間が拘束されるからだ。時間は本当に大切なものだ。時間を奪われれば、思考は容易に奪われる。ただ心地よさを求めているだけなのになぜ労働を強いられるのか。

なぜ闘い続けなければいけない。就職しようが、しなかろうがなぜ闘い続けなければいけない。就職してから人をより憎しむようになった、それは事実だ。貧困層とか弱者とかそういった人たちの化け物のような面を見て、主婦の傲慢さや、若い奴の威勢や情弱や金持ちの交渉術とかを見てつくづく、人間は救われるべきでもないんじゃないかと思う。人がバタバタ死んでいく様は悲しみもあり、喜びにも満ちている。昔からそういった一面はあったが。以前は金持ち、ルールの押し付け、ゾーニングを行う側を鋭く睨んでいたはずが、ゾーニングされる側まで睨みつけるようになってしまった。

貧乏は嫌いだ。選べないのは辛い。もやしなんかで飯は食いたくない。セールだけのために服を買いたくない。服と飯にしか金を使ってない。金を稼ぐのに頭は使いたくない。眠たくなってきた。睡眠に誘われている。受けよう、煙草を一本吸って明日のスタイリングでも考えながら。