川床

河へ飛び込むかどうか、あそこに通じている道は河だ。汚くもさして綺麗でもない。あの河、それの向こう側でもない、ただ河へ飛び込んで川面に浮かぶ、沈みかけている、徐々に腐りつつある、足を踏めば、バラバラと流される床へ行かなければいけない。そこから先は無我夢中で進めて、川に漂流した床の断片を拾い集めながら、額を作らねばならない。私はためらっていた。水に浸かるのは頂けなかった。ナイジェルケーボンがそこで遊んでいた。遊んでいる、ということ以上になにも当てはまらないことをしていた。わたしはナイジェルがそうしているのを見て、心が軽くなった。額をつくって、昔やっていた、インスタレーション作品を完成させたら?というのはナイジェルの発案だった。そこかさら先はどうやってそこへ行ったのか覚えていない。夢の記憶が身体へ流れていた。四角いアマゾン川を横断しているところ、黄金のタイルの川をピクセルのように進みながら、横断してからアフリカを抜けて大西洋へ出たことを知った夢を。

団地にいた。朽ちた。団地、そう呼ぶ以外には。団地の真ん中の緑のトンネルを切り抜けて、夏の匂いを嗅いだ。人はいないが、人がいる。ここへ来た者、ここから去った、そして、ここにあった者。五十年、六十年前に建てられた家、家具はほどほどに合って、家電はない。公民館のような家。ここでインスタレーションを作った記憶はないが、わたしの断片が散らばっていて、そこに誰かのインスタレーションが乗っかっている。悪くない。ただ完成していない。そうゆう風に思えて、額をこさえて飾り、別の部屋へ。一台のテレビ。とてつもなく大きい、ウサギのぬいぐるみが靴を履かされて椅子に座らされていた。インスタレーションの一部だ。だれかの、その者たちの名を、集団を、知っている。年下の悪くない奴らだ。作品は、人となりは知らないが。わたしはウサギの靴のとなりに大きなベージュの震える靴を置いた。寄生だ、とわたしは思った。

セミの声がする。ここは離島のようだ。家からはそんなに遠くはないはずなのに、此処のことを思い出すことができなかった。此処は昔から通っていたはずの、場所で、いつでも戻れる場所だったのに。忘れてしまっていた。そこでは誰とも合わなかった。でも、誰かの禍々しい生の痕が残っていた。その跡にわたしの、わたしたちの跡を重ねてわたしは戻ってきた。たまに寄るのがちょうどいいのかもしれない。

2000年の初めくらいに行われたインスタレーションだった。終わったインスタレーションの残りに再び、その年下の彼らはインスタレーションを行なっている最中だった。当時の催しの冊子が、比較的、立派な、学祭を思わせる冊子が本棚に挟まっていた。それでわたしは、そこの年号を知ることができた。彼らもまた、数ヶ月はその場所を放置しているような様子だった。でも、作りかけだと分かった。2000年より以前にわたしはここにいた。もしかすると、基地づくりしていた場所かもしれない。あの大きなウサギは印かもしれない。ずっと前からいた気がする。それだけ年季も帯びていたような、短毛で短耳のウサギ。基地を作ってから誰かがここへ住んだだろう。それは跡でわかる。それでも懐かしい、知らない者の痕跡でさえ懐かしい。それから暫く経って年下の彼らが何かをこさえつつある空間でさえ懐かしい。それはある記憶をかたちづくっているからだ。そこにいた記憶はない。ただ懐かしく、いたような気がするだけかもしれない。年下の彼らだって恐らく、その場所を忘れている。片隅にやっているだけで消して忘れてはいないのだろうが。わたしだって忘れていた。夜の船に勝手に乗るまで。乗るな、乗ってはいけない、許可なしにと添乗員に言われたあの船に乗るまで。ロシア行きの密航船。暗くてジメジメした、甲板の下のぼろい、だだっ広い人の顔さえ見えない、みんな寝袋にくるまって眠っているふりをしている場所で添乗員、顔に血の気のない、者が一人ずつに話しかける。幽霊のような様子で。その人はわたしに乗船前に忠告を与えた。わたしのうちの一人は岸に残り、船の出発を哀愁ともに見守り、わたしのうちの一人は船に潜り込んだ。

あの場所へついたのは船を見送った方の私だ。わたしは思い出したように川のそばを走ってナイジェルケーボンの声をきいた。2020年5月8日午前3時前。帰還、一時間後再び眠りに。