3日間ほど同じものをつくっていた。飽き性が祟ってはやく終わらせる、目処をつけるという作業をしないと気がすまない。そこに居続けられないという気持ちがあって、たとえば鳥貴族へ行くと、まずぼくは腹を満たしたいので焼き鳥丼を頼んでしまう。そういうタイプの人間だから、ゆっくりと展開するのが苦手なのだ。

それでも、着実に距離は伸びている。3日で一万字を超えた。始めと終わりでだいぶ、心境が変化したので語り口もなんだか変わってしまった。一万字を超えて物語は終わった。というよりも、そのさきは週末でないと描けないのだろうと思う。あとがきという形で示されることになると思う。現状、原稿用紙に換算すれば33枚。海へ素潜りするような書き方をしている。それ以外にやり方を知らないのでしょうがない。さすがに50枚までは伸びないだろう。

書いていくと不自由さを感じる。自分の書いたことによって次の一手が拘束されていく。そう感じたならそれを逆手にとって進むしかない。それが解決されると束縛を忘れ、べつのことに熱中し始める。結果、知らない間に夜が更ける。

というか、今週は色々と書いた気がする。二時間で済むものあれば、一日かかるものもあって、

気づけば何とも言えない物語を作っていた。批判されればされるほどその作品と化していくという謎の構造を孕んだ物語となった。バグみたいな物語。謎の本質は解けなさにある。

謎は穴である。埋めようとすればするほど、穴のまわりを廻るはめになる。こんなアホなん作りたくなかったけど、どうしようもない。批判でなく批評じゃないと、穴を廻るはめになる。

詩の方が作品として成り立ちやすいような感覚があるから物語を千切って散らしてたが、ついにはその形態にも無理が生じて文章に起こしてみた。すると7時間くらいモーターが回った。

寝ぼけながらいうジャーナリズム的な視点で書いている笑いの王ってやつは、強烈にアンチで像を結ぶよりも線でアキレス腱つくるみたいな感じやからいつでもできる。

接続しすぎてかけなくなったタブレットにある作品群はタコを凧にして解いていったらいけるかなって感じなのでいつか頑張ろうと思ってる。『もうひとつの街』アイヴァスを参考に書いてたらついにはアイヴァスと同じような苦しみを味わうはめになって途中でやめた。

それよりも、気になってるテーマがあって本の土台、紙の外在性について。ものとしての本があり、読書の本がある。文字にしろ言語と絵画のあいだでいつも揺れてる。それらの下には勿論紙がある。紙ってすごい受動的にみえるけど中動的やろう。外在的で中動的で、かみさまなんちゃうかと疑ってる

インスタ

インスタをしている。基本的にはキキちゃんと2人でやっている。ほとんど自分の格好を記録するためにやっている。当初の目的はそれプラス、一つのアカウントを多数で運営するのが目的だった。というか、それが主だった。

一人は一人であり一つの目から成る。それが複数集まれば、人数分だけ目が生まれる。また、その複数がぼくとは別のコミュニティに属しているから、タイムラインに他人が出てくる。いわば、ぼくは他人の内輪話に参加させられる。それに参加するかどうかは別として。

そこにおもしろさを見出した。それぞれのコミュニティ、装い、全く関係のない人間たちとは言い切れない知らない他人たちと同居するようなSNS。私物とは言い切れないアカウントをそれぞれ個人的に行うようなアカウントに憧れていた。自分とは別のものが勝手に更新しているにも関わらず同じアカウントであるということ。

匿名の人間によって寄稿される雑誌みたいなのをインスタではしたかった。今でもそうなればおもしろいとは思うが無理なので、個人アカウントへ切り替えようと考えている。というか、現状がそうなのでそのままか。

今まで通り、基本的には、はキキちゃんと会っているとき、自分の格好を投稿する。ぼくは自分の格好に興味があるし、自分の写真集が欲しい。これはナルシズムじゃない。近くて遠い自分が気になるのだ。

今と過去が直線的に繋がっているような感覚がぼくにはない。断片と断片で一時的に接続されるようなことはあるだろうが、ぼくがぼくであり続けたことは一度もない。ぼくという固有名詞があるだけだ。固有名詞を嫌悪しているわけじゃない。不思議なのだ、この不正が。ぼくがぼくであり続けるという不正が。ぼくという固有名詞がなければ書くことは愚か、話すという感覚さえなくなるだろう。つまり、名を持たぬ人間は人間でなく別の生を全うする。

ぼくという最低限で揺らぎやすいが、決してボヤけない輪郭がぼくを人間とたらしめている。風を感じよ、と人が言う。厳密に言うなら、風を感じている身体を感じろということで、風と肌を隔たる我を知れということである。ぼくらは皮膚によって、中身を保持しているそれが解けるとどうだ。ぼくらはぼくを失い、全体へ溶けてしまう。つまり真の意味でぼくらになってしまうということだ。

インスタグラムは自分が自分であり続けることの不正を感じながら、首の皮一枚で繋がる主語を大切に思う気持ちから稼働している。それにわかりやすいだろう。ツイッターよりも自己紹介に適している。どんな投稿でさえも利用者の思惑が伝わる。

当たり障りない投稿とも、オシャレを心がける投稿ともぼくは無縁である。ぼくは生活を投稿している。ぼくは不正まみれのぼくを投稿している。だから、撮るときは毎日、その時の自分が好きな格好をしている。それにキキちゃんにも申し訳ないじゃないか。寝巻き姿で会いに行ったりするのは。

むかしのハロウィンは酷かった

「火あぶりにされたサンタクロース」

という本がある。レヴィ=ストロース中沢新一が著者である。四年前に読んだのであんまり覚えていないけど、ハロウィンとクリスマスについて考察した本なのだが、その本によれば昔のハロウィンはとんでもないものだった。

内容についてざっくり説明するとハロウィンで死者招来、クリスマスでプレゼント渡して死者にお引き取り願うというようなもの。この死者というのが、子どもにあたる。もうちょっと折り入って説明すると、レヴィ=ストロース俺変換によれば、死者を子どもにみたて、もてなし、来年の豊穣を祈願するといった宗教行事がハロウィン=クリスマスにあたる。うろ覚えだが、こんな感じだったはず。日本人なら染み深いよね、死者をもてなし豊穣を祈る行事。

ちなみにハロウィンはキリスト教の行事ではない。またクリスマスにプレゼントを与えるというのもキリスト教の行事ではない。彼らからすればこれは異教徒の文化である。接続詞の使い方に困るが、事実として、1951年フランスのある教会がサンタクロース人形を火あぶりにする。民衆の前で。それが発端となり大論争が起きたらしく、ついにレヴィ=ストロースが口を開く。

分析は、キリスト教以前の信仰とキリスト教キリスト教後の資本主義と資本主義以前からのキリスト教といった二項対立で話が展開されていく。

中沢新一が何書いてたか忘れたけど、レヴィ=ストロースはこんな感じで話を進めていったはず。

サンタさんが火あぶりにされたのも衝撃的な事実だったが、それよりも驚かされたのはハロウィンを機に爆発する子どもたちの悪童っぷりである。

子どもといっても青年も死者には含まれる。今でこそトリックオアトリートとか言うて可愛いものだけど、むかしは普通に女性を襲うわ、リンチするわで、とにかく悪行を尽くして街を荒廃させた。死傷者もいたような。それでも、大人たちは抵抗できなかった。なぜかと言えば、死者をもてなすことが社会の目的であるからだ。彼らにしてみれば、今、ここで思う存分暴れさせなければ、死者をもてなせなかったということになる。そうなれば、来年の豊穣は約束されない。

今では理解できない信心深さかもしれないが、彼らは自然界と人間界のバランスを保とうとする思考があった。そこを媒介するのが子供=死者である。実際にはイコールノットだ。イコールノットだから意味がある。死者を目で確認することなんてできない。だからこそ、死者を演じさせ、目で確認できるようにする。元来、子どもは現代における子どもとは別の意味を持つ。

掻い摘んで言えば、子どもとは小人であった。小人は大人=社会とは別の社会に属していると考えられ、小人=自然の領域に属する者として認識されていた。つまり、子どもは社会の成員ではなく、成人の儀式を終えてやっと大人に仲間入りする。どこの国のどこの部族でも成人式はある。なので、成人の儀を済ませていない者は子どもである。

気になる人はアリエスの『子どもの誕生』を参照してください。けっこう、ざっくり言ってます。小さい人は半分社会、半分自然です。立ち位置でいうと、カエルみたいなもん。一言にすれば両義的な存在だった。

話が脱線したので戻す。まあ、むかしのハロウィンは酷かったらしい。今や法外の行為がパブリックに堂々と行われることはないが、かつては法外の他者を迎え入れることが当たり前だった。子どもを孕んでも子どもは他者だから、よっぽどのことがない限り、生んだだろう。セックスもすごく軽かっただろうし、夜這いきたーみたいな感じだったのかもしれない。当時の思考と今の思考はそれだけ違う。

で、そろそろ、現行ハロウィンに対するパッシングでも言い出すのだろうと考えていらっしゃる人もいるかもしれないが、パッシングなんてできない。ゴミちゃんと捨てろよとかくらいだろう。

今のハロウィンをむかしのハロウィンはこうだったという論調でバッシングすることは不可能だし、とんでもなくナンセンスだ。今とむかし(どれだけ前かもしらない)は営む社会が異なる。つまり思考が違う。それに輸入文化だ

現在のハロウィンは良い意味でクラブ的である。仮装すれば、みんな友達。インスタ映え最高。場として人と人を繋げる場へと発展している。クラブはパブリックな発露の場ではないし。もちろん、友達欲しいやつらが集まるイベントだと思う人もいるだろう。そうかもしれない。でも、街を歩いていてコスプレしてる人がいるとおもしろいじゃないか。悪口もでるだろうが、恋もするかもしれない。

いいなあ、ぼくもしたことがある。ありふれたコスプレだったけど、おっぱいが凄かった。すらっと足が伸びていて、唇が真っ赤で。顔がとにかくめちゃくちゃ可愛かった。ただの恋である。こんなお姉さんと写真を撮るチャンスなんてないと思う。ナンパでも成功しないだろう人と写真が撮れるハロウィン。夢がある。ぼくはなぜか、パンツ一枚でスパンコールをクビに巻いていた。スベっても優しい。ああキキちゃんにキレられそう。

キキちゃんへ


冬のはじまりを知りました

ほんのり秋に染まった葉が

おちるのをみて


やってくるのかと思っていれば

やっぱりきましたね

冬ですか。


冬です。一夜ずつ、一夜ずつ

いずれピークを迎えます

また、わたしたちは知らない間に

超えてしまうのでしょう冬を


超えてしまうといえど

春の曙光をのぞむほど、

それは永く果てしなさそうです

想像です


秋はもうすぐ終わるでしょう

多少の秋をそのまま残して

ここにある秋も

されど、また忘れ物です

もぎ取ってきました、冬の空から

あなたと付き合った季節から

一年経とうとしています。




ある写真への応答

ここに一枚の写真がある。わたしは撮影の現場に立ち会った。撮影者、わたしを含めて四人がその場にいた。

コスモスの群生、飛び火、ブルーライト、夜、駐車場。

夜に放たれるブルーライトは心を騒めかせる。自殺や犯罪の抑止を謳われることもあるが、あれは心を和ませるというよりは暗くするのに一役買っているのだろう。自殺や犯罪すら思いつかないほど暗く。

灯を浴びたコスモスの群生は怪しげで美しく、物悲しかった。一角を象るように生えた群れから飛び火したコスモスもあった。群れであって、群れでないコスモスを照らすブルーライト

シャッター音が鳴る。風景が画面に収まり、数日経って一枚の写真が投稿される。写真を見て驚いた。そして、一つの言葉が過って腑に落ちた。

後日、その投稿にコメントを残した。あのときに、決して重ならないわたしたちを包んでいたものは幽玄であると。

すると、返信があった。

ぼくらは少し重なったのではないかと。

彼は最大公約数を射抜く作家だと感じた。彼の特筆すべき能力の一つであると思う。ここに重なると重ならない相反するものが二人のコメントから生まれている。わたしは重なるの代わりに包むという言葉を使っている。わたしのイメージとしては一人の人間は輪である。そして、この輪と輪は重ならない。だが、彼の場合、輪と輪は重なるのだ。大きな違いである。わたしは輪と輪は重ならないと考え、光はわれわれを包むと形容し、それが幽玄であると明かした。

それからしばらく経って、ある哲学者同士の対話を聞いた。そこでは輪は楕円として考えることが奨励されていた。輪は一つの中心からではなく、二つの中心から成り、その形は楕円である。とのこと。

一つの中心は自分であり、もう一つの中心は他者以前の他者である。特筆すべきなのは他者とは言い切れないということである。どういうことだろうか。楕円として一つの輪に二つの中心が収まる。収まっていいのだろうか。そもそもそれは二つでなければならないのだろうか。

わたしにとって輪は限度である。つまり重なってはいけないものである。輪とは違いである。それが重なってしまうということは違が同に還元されてしまうということである。しかしながら、どうだろう。

これは同への還元なのだろうか。人それぞれの間に社会が炸裂しているとすれば、同が別のところへ行っても同になるわけではない。つまり、この同はある人間同士の間だけで結ばれる縁なのではないか。

そもそも同が同であることなどあり得ないのではないか。それがあり得てしまう世の中だから恐怖や気持ち悪さを感じてしまうのではないか。クラブミュージックが同の音楽としてあるような社会が気持ち悪いのは、同を無理やり強制されるからではないか。そして、それを無理やりだと感じる自分がいるからではないか。同を縁という言葉に置き換えると、そのひどい様があらわになる。関係のない縁を押し付けられる感覚とそれを押し付けて感じてしまう感覚。

まとめよう。輪と輪は重なるとは言い切れないが、重なったような感覚に陥ることがある。それが縁である。本来、縁は他の人間同士の間では共有されない。

ここで、また自分の言動とぶつかる羽目になる。最大公約数を射抜くとはどいうことなのだろう。それを述べるときにまず、太陽というイメージが過った。わたしたちを包む最低限度の灯としての太陽。このイメージと対立するのは星の灯である。満月の日にこの灯は消える。そして、月のない夜、満開を迎える。太陽を射抜くことが最大公約数なのだろうか。いや、違う。灯から降る光子を射抜くことだ。その射抜かれた光子こそわたしたち四人の最大公約数としてある縁である。と、わたしは今、思っている。で、それをわたしは幽玄と呼んだわけであるが、あくまでわたしの話である。つまりは縁をもってしても、われわれは別の印象を抱いている。

そもそもわたしはブルーライトを鎮静作用をもたらすものと考え、鎮静作用の最たる効力は人の心を暗くすることだと考えていた。人によってそれも変わるだろうし、ブルーライトに主を置かないものもいるだろう。

決して重ならないという言い方は正しいが、それを誇張するとぼくらの間に生まれたものを表現することができなくなるどころか、初めからそんなものは存在しないというような主張に直結し、硬直する。分かり合えなさを梃子に人と人との違いを還元してしまわないように設定するのも大事だが、それを根拠に関係の不可能性にまで言及するのはあまりに現実離れしていて、相当に危ない。

目下労働


働かなくてはいけない。働いて宝くじを買ってと。宝くじが当たったら辞める。で、何をするか。何もしない。何もせずに生きたいのだが、家賃やら保険やら。生活に追われる。なぜ生活に追われなければいけないのか。困る。払う必要はない。払わない生き方もある。そのエネルギーがない。お湯から上がる気がない。お湯の中で、どうすればいいのか考えている。


働く、その概念を開発することはできない。ぼくには。物書きでは食えないだろう。食うために書けないだろう。食事や排泄と同じように、ぼくは書く。くだらないブログも。閃光のような詩も。また孔を拡げる詩も。詩は垢みたいものなのだろうか。生活の香りがする。


小説を読む。どうしてこんなに書けるのだろうと思う。素晴らしい小説とは別の小説の話をしている。あんなくだらない時代小説を長々と書き続けられる作家はすごい。ともあれ、それを読む人もすごい。あの間に一体なにが生まれているのだろう。


300ページなんてものすごい熱量だ。普通は書けない。それをあんな文で埋め尽くすなんて信じられない。ちょうどブログみたいな感じだろうか。いや、思念を散らして書くなんて誰でもできるのだ。一つの物語を織っているのだ、本の場合は。どんな本であれ。

まあどうでもいいか。


頑張らずに生きたいものだ。人に何かを求めない。人を変えようとも思わない。社会は人それぞれ炸裂している。ぼくも変わろうと思わない。勝手に変わっていく人について何も思わない。


いまある生活がおかしなものであれ、ぼくはここにいる。らしい。それについてとやかく言わないし、言いたい。ここにいながらその世界を助長したくない。これはわがままなのだろうか。

いま、ここからではダメなのだろうか。染まるしかないのだろうか。染まる?言葉がおかしいか。一般的な良識の揺りかごに揺られながら、なるべくお前らと絶縁しながら進む方法がないか。おまえ、そう、おまえだ。昆虫殺しのクソ野郎。ブラジルから回ってきた肉が国産よりも安いのに違和感のないおまえたちと。おれはおまえたちの世界にいながら、どうやっておまえたちと一緒に暮らしながら絶縁していくか。おれはここにいたいのだ、小声で。で、おれはおまえらが嫌いなのだ、大声で。おれは暮らすここに、おまえらと同じように。別の仕方で。


おれには翼がある。車の免許のことだ。ここから離れた自分の声が聞こえる、何通りか。目下きまった、労働のお通りだ。修行という言葉が嫌いだが、いまは修行中だ。