不良少女

足をまるまると出して、煙草をふかしている少女を久し振りに見た。かっこいい。化粧もまだ上手じゃない、周りの目を少し気にしながらプリプリ歩いている姿は、失くしたものを見ているような気がする。そんな哀愁の目で彼女を見つめても、彼女にとっては鋭い視線のひとつでしかないという事実は苦しい。

視線を浴びる。視線を浴びせる。人間風情にも平等に目がある、そのことを思うだけでゾッとする。視線は暴力だ。視線は身体を硬直させる。視線は波を線に変える。生き物は、ものは波だ、歌声は独りでにおこる。わたしたちはゆらいでいる。しかし、一度視線を浴びれば、拓かれた独りは自閉し、歌声は止む。

我々の身体はあまりにも硬く一つの線。マッサージは線を波へと返す。我々の身体は線ではない。我々の身体は揺れている。線でなし、ゆらぎのなかで始は生まれる。

少女は線となって、地面を引きずる。反骨の始まり、身体が鉄の棒となる、パンクの始まり。プリプリする。年にも抗い、季節にも抗う。いいものを見た。二月中旬、冬の中で最も寒いらしい今期一番らしい寒波のなかで太ももが吐息を街に刻む。

ゆらぎに怒りがかけてわたしの身体は硬くなる。より硬くなる。鉄よりも君子よりも、刎ねた首を安全靴で蹴った。空を舞う首から滴る血は七色に光って五穀豊穣を祈る部族の姿を映す。そのとき、わたしは再びゆらぎ始めた。

「訴えたいことがないんです。メッセージのない演説家でございます」

初めてこの演説を聞いたとき、ああ、となった。訴えたいことなどない、何一つとして。そして、次の一文。

「自己紹介は得意でございます」

ああとなった。伝えたいことなどないから自己紹介みたいなことを延々と飽きもせずしている。

鳥肌実、42歳、厄年。

でも、話したいことが山とあるのだ。いざとなれば、何も出てこないけど、それでも話したいことが山とある。

話しながら考えている。われわれはなにかを作っている。話しながら。何かを生んでいる。物語に引き摺られ、口は主権を奪われる。まるで、、それは、、ムード、、、とろけそうな。意味を求めて〜大事なものがない〜それは空洞〜空洞〜

ゆらゆら帝国

さて髪の毛を切った。半年ぶりになる。犬にシャンプーをしている動画を見ていると、何か懐かしいものがこみあげてくる。ぼくは犬にシャンプーをしたことがないし、自分の頭にシャンプーもあんまりしない。でも、あの手の仕草、毛をむしゃむしゃっと掻く仕草、あの愛らしさにはどこか見覚えがある。涙さえ湧いてくる。

ああ、となった。間違いない、これはグルーミングだ。われわれは、口ではなし、この手で愛おしさを表してきた。口は叫ぶためにあり、この手は掴むためにある。この手は顔ほどに物語る。だから手を動かすと色々と思い出すのだ。

口は歌う、手は踊る。われわれの口や手はそうする。いや口の踊りは歌となるだけか、それでもそれはだからこそ叫びに近い。無音のダンス。舌が波、つば踊る。手は?

遠い、その距離はとおい。手は切実な距離。手を伸ばせ、厳密には肘を伸ばせ!おい、肘が曲がっているぞ。それはマエヘナラエとはマエーナラエだ。

そのレザーを脱げビニールに見えるこっちに来るな。これは壁だ、文化の壁だ。日本は平和?甘っちょろい、資本主義だからなんだ。だからってなんでも寛容に済まされるとでも。グローバルでもなんでも勝手に海外へでもどこにでも飛行機でも船でもなんでもよいが、こっちにくる!が、どのような、いかなる方法であれ、お前らはこっちに来るな。なんでも買えてもなんでも買えない不条理がおまえらを消費に駆り立てる。おまえらはこっちに来るな。なんでもできない。

はやく辞めたいから頑張るぞ💪

リセール市場が大っぴらになってしまったから、消費を楽しめる人が少なくなった。憧れも人の垢さえ気にしなければ手が届く。よっぽどでなければ。現行社会にとって、リサイクルショップ店員はキヨメみたいなものだ。祝詞を唱えたり塩を撒いたりする代わりに金を払う。金を払ったものは売ることができる。なんでも払える。金にさえなれば。呪いやら因縁やら、そんなものとは無縁の場所にいる。とんでもない仕事をしている。金は縁を断つもの。だからお祓いをするために燃やしたりしない。

モノには終わりがないから、市場をぐるぐると回り続ける。職人冥利に尽きる。ボロボロになるまでモノは使われ、ボロボロになると捨てられるかまとめて売られる。モノがやっと死ねるのは、価値を失った時だけだ。モノと人との縁はどんどんと希薄になり、モノは代替可能な記号と化す。

会社において人間もまたモノである。代替可能な記号である。代替不可能なもの目指して現代人は名を上げようとするのだが、実際のところポジショニングの問題なので代替可能だ。代替不可能なものを目指すという目標自体が既に代替可能性に孕んでいる。

代替可能か不可能かという問い自体おかしい。どちらとも同じくらいある。こんな話はどうでもよい。

ぼくはもっと原初的な光景を見ていたし憧れていた。海辺で漂白されたものに名を与えるような、ロマンだ。南方熊楠が粘菌に名を与えるときのような興奮とか言っちゃうと大袈裟やけども。ある程度は予想はしていたが、この仕事だれでもできるやんけ!笑 ってとこも予想していて、なるべく誰もやってないことをやろうとしているのだが、実際数字を取れるのは誰もがやっていることをやること、市場に従うことである。苦痛だ。想像はしてたけど、苦痛である。熱意だけでできるものではないと想像はしていたが、それを上回る苦痛である。闘いは、実はかなり地味である。チンギスハーンみたいに行きたいものだが、実際チンギスハーンも地味だったかもしれない。闘える態勢には入っているが、あくまで態勢。

各スポットに菌(罠)を撒いているが、成功する見込みはない。会社なんてどうでもよい、企業理念なんざ覚えたふりをしてればいい。店長なんて目指していない。

おれはおれの闘いで忙しいから会社も給料もどうでもよい。会社はおれを使えばよいし、おれも会社を使えばよい。それが集団と個人との辛うじて可能な繋がりじゃないかと考えている。会社が家族とか気持ち悪いことを言う。互いに利用し合わない限り、搾取は生まれ続ける。搾取するな!ではない 、利用させろ、利用しろでいいのではないか、会社はもっと利用しろと言えばよく、駒たちはもっと利用させろと言えばいいのではないか。言いすぎた。そうじゃない人もいる、そうじゃない人にとっては暑苦しいだけでリズムだけ整えてくれたらいいもんね。とりあえず、金あげるから働けは分かった、働いたるから好きなことさせろ。労働の対価は金である。信仰もしない、好きにもならない。おれときみは法律、契約の下、金と労働を交換し合う関係に過ぎない。会社もとい集団のメンヘラ体質はたまらない、いたたまれない、はやく辞めたいから頑張るぞ💪

なぜファッションをするのか

やる気は鮮魚だ。ぼくのやる気は川魚、いいや、深海魚並みと言ってもよい。数分後に腐ることなど当たり前で、ましてや夜と朝なんて、いつもその振れ幅に慄き白ける。朝は喪に服することが日課だったのに、今や喪中してる暇がない。歯を磨かない内に仕事へ出る。ろくでもない。腐った身体で朝を迎える。これを死に体と呼ぶ。

一つのことができない。できる方がおかしいと思うし変態だと思う。同一性、恒常性に憧れる変温動物などいないので、本当は飽き性でいいのだろう。人間というのは本当に人間以外のものになりたがる。訳もないのに、鳥に憧れたり、猫に憧れたり、まあ色々と別のものになりたがるのである。もちろん戻れるという、前提があるからこその願いだ。それが故の幅。人間は何者にでもなろうとするし実際になれてしまう。人間だけが人間以外のものになることを望み、実際に『それ』になる。人間は特質的にそういう生き物だ。『それ』から人間に戻ることもまた、人間のダイナミズムである。『なる-戻る』はセットだ。例えば、狼男がずっと狼男だったら、狼男は人間ではなく狼だ。容姿の問題を別にすれば狼と変わらない。狼男は狼と人間を反復できる、するしかないのである。そこに治療だったり、狼か人間かという問いは無駄。狼男は反復している。

狼男だけに限らず人間は常に反復している。容姿に反映されないから自覚はないだろうが。人間には治しえぬものがある。

なぜおれはファッションをするのか、アパレル業界にいるわけでもなし、それを志しているわけでもなし、おれの一部では不穏におもっている者もいる。おれの一部ではなぜか分かっている者もいる。『一部』だけでは語弊があるので訂正する。おれの固有名詞のなかでドロドロに溶けているかのような人間たちのことだ。

で、おれたちは今日、なぜおれがファッションをするのか話あい、しっかりと言葉として認識することができた。おれは反復しているのだ。誰かの目を好ましく思ったことは一度もなく、誰かに褒められて嬉しいと思うことなどない。おれはたぶん、山に一人で住んでもファッションをする。いや、流石にそこで反復してる場合じゃないか、そのときゃ詩でも作ってるか、いや紙とペンすらなければ歌でも作ってるんだろうな。

で、おれがなぜファッションで反復しようとしているのか理由は簡単である。社会人になったからだ。本を読む時間がなくなったからだ。外部環境に合わせて人間は反復する。社会人をやめれば本を読むのでファッションをしなくなるだろう。ぼくはこの前、自分が書いた物語を読んだ。拙いがえげつなかった。今まで読んできた、見てきた物語に引けをとらなかった。しっかりと与えら、与えていた。ぼくがもう少し真面目で丁寧で同じことを続けられる性分だったら、世に出たと思うし、みんなも読めたのに。

書くことと読むことはセットだ。ファッションのツガイはなんだろう、と考えると、おれの名前の中でドロドロに溶けているような何者かが「社会だろう」と呟いた。こいつらも悪いやつらじゃない。正しいよ、きみはいつでも。

『you know you're right』by NIRVANA, lyric from Kurt Cobain and his wife. polly wants a cracker.

ヴィンテージが悪いわけじゃない

年代追ってる内に歳食うで。50sファッションはマーロンブランドがやってるからもうやらんでよろしい。おっさんの真似してヴィンテージ集めるのもやめといた方がいい。色々と解せないことが多い。ナイジェルケーボンにさえイラつくこともある。その時代は終わったのだ。いちいちあなたがする必要はない。シャネルを持って反骨ですわたしみたいな、そんなアイコンどうでもよろしい。服が泣いている、いや実際は泣いていない。ものだからだ。ただもったいない気がする。ある年代に生み出された名品だからといって何の変奏もなしに、当時のリプロにされるのが。服から可能性を奪っている。搾取だ。復刻メーカーも同様に腹が立つ。懐古厨め。中途半端な変奏も気に食わない。

お前のしらない固有名詞たちでおれは積み木遊び

本を読むと影響される。自分の言葉さえその人っぽくなり、その人と同じようなことを言いだす。それにもだんだん飽きてくるが、思考がそうなっているので、そうなる。あくる日には言ったことさえ忘れている。しあわせ。

【なぜこうも平仮名は丸いのだろう。漢字を見ると、例えば草冠で首を吊って殺してやるぜとか【さんずい】に刺さって死ねとか思えるのだが、平仮名を見ると色々と捥ぎ取られる。それに平仮名は意味を遅延させてくるので後から炸裂する。非常にタチが悪いが心地よい。腹立たしいが嫌いになれないし、本当のところ、よくわからないが好きであり、憧れもある。イシヤクの文章を読んだときの感覚に近く、キココスタディノフのコレクションを見てる時の感覚にも似ている。

で、カタカナだ。この無機質さは一体なんなのだろう。外国語を外来語に置き換える日本語の膜であるにも関わらず、なぜこんなにもライト臭いのか。まあそりゃそうか、無理やり日本語にしてるわけだから吸引力の変わらないただ一つの掃除機みたいな貪婪さがあるわけだから。はなはだ共通項がないわけではなさそう。そうか、ダイソンは右翼だな。でも移民ですら吸い込むからもっとコスモだな、でかくなればビーズ吸うみたいなノリで地球も吸うだろう。どうでもいいこと。カタカナは直線、平仮名は曲線、おれは平行四辺形で手を上にして歩いている。いつでもな。

で、文体の話に戻る。戻らない、いや、戻る!戻るか戻らないか、では留まるのか、いいや進むのか、立ち竦むのかマイケレン味。おれのケレン味よ!いいやマイケレン味よ!芦田愛菜

マイというのはどこまでがマイなのかという問いには興味がないし、マイというのは合いの子であるというのも聞き飽きた。マイドゥルーズも、マイラカンも、飽きた。言うのも嫌になる。世界を閉じすぎている。独り手に死人とチェスしているのとおなじだ、彼らが生きてるとしても、本になった、会話が終わった時点で死んだのとおなじだ。ただ不思議なことに小説家や詩人の固有名詞にはマイをつけられない。これはかなり個人的な話だろう。無理だ、違和感があるし、凸と凸だ。そこはおれのプレイスじゃない。

どうやって言葉を書けばよいのだろうか。ぼくには伝えたいこともないし、伝えたいことは書くことと関係がない。そもそも無縁だろう。文体は闘争でしかないのではないか。ぼくの前でチラついたヤバい奴らと、その視線を浴びて、おれの視線を向けて、やっと出てくる一言目を待つこと。おれは引っ張られ、裂かれる。四方八方からヤバい作品がおれを股裂どころか、無言に足らしめてそれどころか、おれに入ってきてそいつみたいな文を書かせる。で、おれはおれを望むのだが、マイケレン味とはなんぞや、と。ふと考え、風呂の水面で出るあぶくのような喃語をあげる。それは妄想か、どうだ。しらないか、お前にはわからない。始まりについて考えるというだけで俺は死んでいる。求めても、求めることだけがラディカルだが、ふとした風のなかに天使を見つけたりする、この時だけのために、その時の発熱、その時の全能感のために、無理だと感じつつも指を走らせる。それがマイケレン味なのか知らないが、そのときは味もわからない。でも、おれはきっとその天使に固有名詞をつける。名前を呼んでも彼らは顔すらださないが。

泉へ

金があれば鬱病は治ると知人が言っていた。でも、在るだけじゃだめだ。湧いてこないといけない。大漁どころじゃない、ぼこぼこ、ぼこぼこ湧いてこないといけない。在るだけじゃ消費になってしまうのだ。在るだけじゃ無くなってしまうのだ。無くなってはいけない。無くなるかもしれないと思えば思うほど辛いことはない。一生減らないお菓子ほど幸せなことはないだろう。無くなってはいけない。無くなることを考えるのは死について考えることと同義だ。

まあいいや、今日は無くならないものとは何だろうということである。ラカン現実界を思い出して知ったかしても仕方ない。無くならないものとは何だろう。身体は有限だ。想像は自由だ、んなわけがないが、無限ではある。そういう意味では有限かもしれない、でもそんなこと関係ない。

東くんは草を刈る。東くんは成人男性が生涯食らうだろう量を凌駕する枝豆を作っている。東くんは枝豆を消費することがない。例えば、AV男優が射精するシーンを見て、滝を思い出す。量が多いと感動してくるし、性的な快楽とも混じり合った何かしらの興奮も覚える。精子もなくならなければいいと思うが精子もやはり有限である。身体は有限だ。三人寄れば文殊の知恵と言うが、集まっても仕方ない奴らもいる。

電車に乗ると、色々な会話が聞こえる。酔っ払った若者風のおっさんが色々喋っていて不快である。若者風はキモいのである。なんというか、おっさんが若者と同じファッションをしているとキモいのである。未だ発情期かと、未だそこか、と。カッコいいと思ってるのだ、死ねば良い。色を感じない服装とは概ねキモいものだ、誰であれ。若者もキモいのである。色がないのはダメなのだ。かと言ってユニクロでいいんすよ、服なんて。もキモいのである。いやあ僕だけかもしれないが、みんなキモいのである。キモい奴の方が多いのだ。なんでこんなにみんなキモいのだ。なんで人間はこんなにキモいのだ。キモくてキモくてやるせない、人間どもはみんな龍の背中に乗って富士山にでも行ってなさい。

なくならないものとは何だろう。人間の世界にあるのだろうか。人間のつくる規模にあるのだろうか。あるのだよ、それが芸術だ。規模なんだよ、ミニチュアなんすよ芸術なんすよじゃないんだよ。芸術なんて消費できるもんじゃないんだよ。あーこれってあれですね、すごいじゃねえんだよ。比喩すらないんだよ。リアルなんだよ。階段のうえのこどもにきみは話しかけることができない、だよ。名前も知らないんだから、一緒に泣くことしか、死ぬことしかできないんだよ、名前すら知らないから。話がどんどんと逸れたけど、もっと心地よい言葉を。言葉の輪郭しか残らないものを、作れたらいいいな。汚い意味も綺麗な意味もそこにはない。漂流物みたいに洗ったげる娼婦みたいな海は漂流物をぼこぼこ浜辺に届けます