へリングの生

キースへリングへの嫉妬が募る。まず写真を見てもらいたい。

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天才ですね、へリングは。私はずっと壁になりたかった。街へ擬態したかったし、擬態としてのファッションをカモフラを超える形で実現したかった。が、このへリングの写真を見て、私の中に猛烈な嫉妬が走った。というよりも、ヤられた、いやヤラれてた。という方が正しいか。

まず、私の擬態とキースへリングの違いは、私が外部へ溶けようとするのに対して、へリングは内部を外部化することから始まっている。これはもう目玉飛び抜けたね。単に部屋を飾るわけじゃなくて、内部を外部にしちゃうってところ。私はこれを見て、お前もこっちこいよと言われてるような気がした。へリングのフィールドでは、へリング以外の人間が浮く。へリングは自分が無敵になれる場所をつくった。強引ではあるが、原初的な風景にさえ見える。アニマルの面影がちらつく。もっと言えば、へリングは巣を作ったのである。内部を外部化するとは想像の巣を作るということだ。生活としての巣ではなく、ビジュアルとして巣を作ったのである。天才、というか、アニマル的であり、人間的である。

かと言う、私は、街へ擬態することばかりを考えて暗礁に乗り上げる。現代の部族とはなにか、と考えるとスーツを着こなすサラリーマンであり、デニムである。そこに抗おうとすると今度はカウンターカルチャーに巻き込まれる。まあ詰んでるわけっす。だから社会の対立項から逃走戦を引くために、人間へ擬態するのではなく風景へ擬態しようとしたが、人間には顔があるから難しい。へリングが生なら、私はゴーストを目指した。でも、ゴーストって多分、リックオウエンス みたいな感じやろうなと最近思っている。

街への擬態はものの3日くらいで頓挫した。3日しかやってないのに、へリングと比較しようと思ったなとお思いのあなた、でも、3日もあれば地球の裏側から帰って来れる時代だぜ。だから運なかったな。でも、たまには考えてみようと思う。ゴースト的でない、街への擬態を。街で隠れる必要はないと思うかもしれないが、視線は武器やで。えっとな、ヘンリーミラーやったか古井由吉やったかの小説か、デリダの視線の権利やったか忘れたけど、展覧会で言えば、the power of images っていうの民族学博物館であってんけど、まあ何れにせよ分からん奴には分からんやろう。実際、歯医者の真っ白なLEDの下で口の中見られるくらい嫌な視線を浴びまくってるわけやから、視線から心身を守る必要がある。思いついたらいずれやる。とか今日はへリングと私を比較しながらとやかく話したけど、へリングのことよう知らんって言うたら怒る?笑

その、ことば

「闘いつづける限り負けないのだ」キキちゃんは、ぼくの言葉を憶えていた。ぼくは忘れていた。エネルギーに満ちていた自分を思い出した。こうも隔たったところに、今がある。忘れていた。でも、キキちゃんはぼくの言葉をずっと忘れずに何かと闘いつづけていた。

その言葉は坂口安吾から引き継いだ言葉だ。キキちゃんがそれを口にしたとき、頭から光が飛んで目眩がした。「一体、何と闘っているというのだ。勝てるわけがないじゃないか、人間が勝てるわけがないのだ。でも、闘いつづける限り負けないのだ」

キキちゃんは憶えていた。ぼくはいつの間にか、何かを社会にすり替え、社会を会社にすり替え、代替できない怒りや悲しみや退屈の対象を身近なものとすり替え、闘うこと自体を忘れていた。闘わないという選択肢が生きるうえであり得るのだろうか。闘うことが生きることだ。もっと怒れ、もっと悲しめ。社会なんてどうでもよい。おれは戦争機械であれ。おれは闘いであれ。おれは文人ではない。作りたいだけの人間である。即席のもので抗え。武器を持つのに武器屋へ行くな。フォークで闘え、マンホールで闘え、植木鉢で闘え。ことばも使え。使えるものは何でも使え。お前という二人称をもって呼びかける得体の知れないものと闘え。人間と闘うな。もっと大きなお前、顔も知らないお前、声も形も知らないお前、おれの声が届いてるかどうかすら分からないお前におれは闘え。おれはそれだけと闘え。社会は炸裂している、そいつらをああだこうだ言うよりも、おれは生きろ。おまえを履き違えるな、神を作るな、即席の神を設けろ、すぐに追い出せ。呪い殺せ。それが地に足をつけられない、おれの闘いなんじゃないか。

ぼくは詩人ではなかった笑

詩人ではないことに気がついて肩の力が抜けた。前々からおかしいなあと思ってたんやけど、おれの詩は詩じゃない。では何かと言うとツェランとかベケットとかドゥルーズとかの言葉を頭に浮かべながら自分の経験情報を整理してたので、いわばただのノートである。なぜこれを詩の形式にしたのかと言えば、何かを作りたかったからである。ぼくのノートにはタイトルがない。そもそも伝えたいことも作りたいものもない。ただ何かを作りたいだけだった。今から思えば、色々と納得できる。伝えたいこともないわりにやたらと何かを作りたがるし、作りたいものがないわりに作ろうとする。ぼくはこの何かにずっと翻弄されていた。で、今日分かったのである。ぼくは作りたいだけである。社会とか革命とか新しいとか古いとか、気にしてるふりはしてたけど、実は全く興味がない。で、おれの書いたものの中で一番しっくりくるものがあるので参照しますね。

ああああ負けました

負けました

前面降伏でございます

感化院でも会社にでも放り込んでください

ああ負けました、負けました

国なんてあったのですね

知りませんでした

お国のためにでなく

自分のために闘っていました

申し訳ない!

ああああああああああああ負けました!

負けました!

そもそもこれが闘いだったなんて

知らぬが仏は褒め言葉だと

恐縮でございます!

ああああああああああああああああああああああああああああああああああ

負けました!

負けました!

負けました!

不戦勝でございます!

 

 これと、

エギリスのEU離脱ですか

北朝鮮テポドンですか

日本の首相ですか

初耳です!

テレビジョンは家にないのです

新聞ですか

ネットですか

ニュースですか

ポルノしか見ていません

恐縮です!

政治問題ですか

立派に政治活動しております

炊事、犬の観察、読書、おしゃべり、通行人との駆け引き

私にとって政治とは

判断でございます!

つまり、自分とは関係のないことを

ばっさり切断し、

有限なる繋がりを

盆栽していくことでございます!

 

 

三、四年前やから、ばりばりドゥルーズ入ってるけど多分これが正直に書いてる文なんやと思う。でも。そもそも戦ってもいないし、戦う気は実はなかったから嘘をついている。嘘をついて文章を高揚させている。自分を高揚させて夢中にしようとしているんだね、これは。

で、その時のぼく的には読んだ本と戦うのがおれの本能だと思ってたわけなんですけど、ところがどっこい興味なかったんですね〜笑

ずっと作りたかった。ぼくは何かという得体のしれない脅迫概念に唆されていたのであーる。笑 笑とかつけないのに笑とかつけちゃう、この感じがまじでいい感じ笑 また笑つけちゃうよね笑 ほら笑 笑笑にでも面接行こうかな笑

何かを作りたいわけじゃないってことに気づきました。持続するのはそもそも昔からできない。でもぼくは作りたいんですね。だからこれからはHOWでいけそう。どう作るか、何でつくるか。でね、まあぼくは今日めちゃくちゃ悩んでたんすよ。最近ずっとなんですけど、何も作れないし、文も書けないし、仕事しようがしまいがいつも何かに追われて死にたくなるけど、それと同じくらい生きたくもない。死に至らない病って呼んでたんですけど、それって何かを求めすぎてたんですね。そもそも何かなんて興味ないのに!

今は絵も描けるし、てか、昔粘土で鼻ばっかり作ってたんですけどまた粘土しようかなと思ってます。単純に手を動かすっていいっすからね。粘土は乾いたら残るし、残ったら誰かに見せれるし、ええことばっか。純粋に作りたい、それだけのことに気づくのに時間かかった。いや、かかってないな、結構早い方かもしれへん。天才かもしらへん。ただそれに気づかせてくれたのは原稿とインクの出が良いペンでござる。親指だけじゃ分からんことも教えてくださるでペンは。いいペン使いなはれ。

思ったんやけど、おれほどおれの出来事だけでおれを解説できる人間いてない。これってすごいことちゃうけ?寝る前にシャーマンキング見よう

整然と矛盾する潔さ

タイトルの如く素晴らしかった。カルチャーが渾々と湧いては死にアスファルトの上から立ち上る靄は夢のようにアトラクティブで開放的だった。大阪とは異次元の場所だった。そもそも比較対象ではなかったという感慨が街を歩く度に、ひしひしと感じられた。人間の数が桁違いに多く、彼らが持つ二つの目はその数の二倍ある。視線によって籠絡されたアスファルトのカルチャーは、数の多さゆえに無関心でもあり、人間同士の間で交わされるファッションものびのびと捻られていた。

アスファルトのカルチャーに他種生物はいない。というよりも、人間以外の生き物の存在すら忘れている。忘れているだけで本当はみな、覚えている。忘却に次ぐ忘却で自暴自棄になっているのが東京という都市、夢なのだろうと思っていたが、必ずしも自暴自棄ではないのだろう。つち式の観点からすれば、他種を忘れすぎではある。

ぼくはファッションをしている。視線があって初めて成立するものだ。視線が多ければ多いほど、ファッションは洗練されていく。端的に言えばファッションはアスファルトの文化だ。それをやってる人間からすれば、東京はほんとうにアトラクティブな街だった。

ファッションが始まって未だ百年に満たない。というよりも、ファッションは始まってすらない。東京ではファッションが始まっている。話は変わるが、つち式はアスファルト以前の生を暴くラディカルな書だ。アスファルト文化への天災でもある。ぼくはこの本に少し携わりながら、生を大阪で過ごしている。東京に魅力的な引力を感じ、つち式のラディカルさを感じながら、寝ていたの死んでいたのかよくわからない心の動きを感じている。どっちも肯定している自分にもはや驚きすらない。それは混沌としたものですらなく、整然と矛盾する潔さである。今はとても心地よい。よく眠れそうだ。

新幹線に乗る!

人生で初めて新幹線の指定席に乗る。バスかヒッチハイクでしか旅行したことないから、未知の領域である。一年ほど前、イシヤクがこんなことを言っていた。「バスは疲れる。新幹線は出た時と同じ状態で別の場所へいけるのでとてもよい」

バスは疲れる。大阪から新宿へ着く頃には2日分くらい疲れているような気がする。早朝に着いても、マクドくらいしか開いてないからマクドで仮眠をとる。数分も経たないうちに店員に椅子を蹴られ、ザッツ東京スタイルと呟き、もう一度寝る。また蹴られるR.I.P

新幹線に乗りたかっただけかもしれない。ちゃっかり二泊もするけど、貧乏性なだけだ。予定も昨日決まったところ。とはいえ、服装も旅人さながらだったので、キメて東京へ行く機会がなかった。今回はキメて東京へ行ける。それも楽しみの一つだ。悲しいことにぼくはキメにかかるとスベる。手荷物は持ちたくないから二日間、同じ格好をするハメになる。シルバーのタイツみたいな、座ると椅子にラメがつくようなパンツを履いていこうと思っているが、履くとまず身動きが取れなくなるのでどうしようかと考えている。 今回はパンツを中心に考えたからパンツを代えるとなるとコーディネート変更を迫られる。ふつうにめんどくさいし、最近はタテノリみたいな格好ばっかりしてるからタテノリの格好になってしまうだろう。パンキッシュなスタイリングはかっこいいが似合いすぎる、似合いすぎる自分に飽きている。かと言って横ノリも飽きているし、70sも何か飽きている。もはや年代縛りが嫌であり、似合うだろうなと想像しえる服も嫌である。この際、一色レイヤーになろうかな。

死に至らない病

昔はね、人間を解放しようと思ってたんですよね、ずいぶんと大義ですけど。今は、それを思わないですね。迷惑という概念がありますけど、この迷惑という言葉に非常に迷惑している人間がおりますわな、その人間のためにも頑張ろうと思ってたんです。でも、今はダメですわ。例えば、あらゆる書物は人間のためにあるわけじゃないっすか。基本的には。人間ばっかりアホばっかりでもうええんちゃうけとか思い始めてから何も書けないんですね。承認欲求もないから余計書けないですね。一言で言えば、ぼくは革命のために書いてたかもしれないですね。自己紹介も兼ねてね。この犬野郎とか猿以下とか、悪口で使う人いてますけど、それ悪口なってないですよ。人間を良くするとか、解放するとか、ほんと無理な話やと思います。単純に言葉の衣擦れのようなあそびをやってても、どうしてもぼくは憎悪や賛美を綴っていた。だからぼくは革命したかったのだろう。どうしてこうなったのか、単純に人間が増えた。それだけの話です。訴えるものがないんです。メッセージのない演説家でございます。さながら、ぼくは今度東京へ行くのですが楽しみですね。このまま、この論理の極へ行くならぼくは死にますね。でも、死にたくないわけです。キキちゃん好きやし友達も好きやし、みんなラブやから。死ねないし、生きたくもない、この有耶無耶な状態を繰り返しぼくは、話してるわけですけど。おまえらは一体何しにこのブログを読んでいるのだ。こんなところには何も落ちていない。心配は御無用。希死念慮ではない。ただ価値を見失った、本を読み書き、人間に伝えるということ。社会の潤滑油でしか、ないのならば音楽なんてものは下等。音符こと爆ぜて無へ帰れ。ぼくは音楽に救いを求めた。救いを求める、その情けさなさ、音を聞いた耳で言葉を聞く、涙を流したのと同じ目で人間を見る、この遣る瀬無さ。この屈辱は、今までオブラートに包んできたものが失われたときに、まじまじ重く感じられる。ぼくは何処へ行こうが、こういうことしか感じられない。何をしようが、ぼくは生きられず、死に至らない病だ。見えなくてなっても突然降って湧いてくる、ぼくの、中には億千の細胞や菌がいる。消えることはないのだ。見えなくなるだけで。ぼくのひかりもまたそれに同じ。こんな反復をしても精神が丈夫になるわけでもなし、日に日に重くなる。なぜか、知らないが謝りたい気分だ。ごめんな、前世、後世。もしも人間だったら、人間に憧れていたら。こうやって思いの丈を綴って今心が軽くなって眠って朝がくる。この反復に救われる情けなさ

令和を知らない者


とても大きな共通の記号が発表されたとき、わたしはアメ村の三角公園前の、いつも、つまらい広告を垂れ流しているヴィジョンの前にいた。黒でバッチリ決めた黒ずくめの集団と、未だ青い子供たちは新元号の発表を待っている。知らない頭がたくさん公園に、知らない頭がたくさん公園からはみ出て、この時代の次の時代の名付けを待っている。


わたしたちは、あまりにばらばらだ。時代の名付けほどに強力で包括的な記号の授与はない。誰が死のうとも、誰が生まれようとも、誰が殺されようとも、わたしたちは何を期待しているのだろう。アカルイミライか、この平らになった終わりなき日常が風雨に晒されることを望んでいる。


時代は令和と名付けられた。これから生まれてくる子供たちは、令和生まれになる。その前に死んだ者たちは令和を知らない。わたしたちは令和を知らない者が知らない時代を生きる。そう言えば感慨深いものがある。日本という国だけの話だが。


「新しい元号は令和となりましたが、いかがですか?」


「ぼくはてっきりヒップホップになると思っていたんですが。びっくりしました」


記者に話しかけられるのを想像しながら下らないことを考える。「怒るでしかしでも良かったんですけどね」


平成に死んだ者たちは令和を知らない。生きるわたしたちには共通の言葉がどんどんと増えていく。


有識者「平成の次の元号を教えてあげようか?」


ホステス「知ってるの〜おしえて、おしえて」


有識者がボソッと呟く。


「令和だよ」