ベケットと四季

春への期待をあっさりと千切る、この風のつめたさ。短い春だったような気がする。また春が来るらしいが、ゴドーを待ちながら、もしもあれを劇で見ていたら同じような気分になったかもしれない『また冬か』

四季の移ろいはながああああい。仮にでも終わってはくれないから本よりタチがわるい。本と四季はよく似ている。終わらなさが常にある。人間は季節を迎えにいくことなどできず、季節を待って待って、季節を祝うことくらしいかできない。本は続きへ駆けることができるけど季節は無理だな。滑らかな布を滑っているような気分がする。滑らかだなあと思ったいると穴に落ちたりする。今は穴の中の滑らか布を滑っているのだろう。気づけばまた、あの滑らかな布を滑っているのだろう。季節の穴に落ちても次元が変わることはない。扁たい日常。ほんとうにゴドーを待ちながらとよく似ているのかもしれない。

せっかくゴドーを待ちながらが出てきたので祈りについて考える。

雨乞いをする。雨が降ってほしいという願いを祈る。願いは祈られるのだ。祈りを願ってしまうと、教祖と信者の関係に近づく。願いは欲望と置換可能だろう。願いという矢が祈りという弓にかけられる。未来の良きこと、他人の幸運を手繰り寄せる方法が祈りがあり、己の力ではどうしようもないことは祈られる傾向にある。

で、ゴドーを待ちながらは祈りであるという説がある。待つ=祈りという図式がそこにはある。ぼくも昔はそう思っていたが、果たして待つことは祈りなのだろうかという疑問を払拭しきれずにいた。物語の主人公ウラジミールとエストラゴンはゴドーを待っていた。先ほども述べたように待つという行為と打つ(祈る)という行為は異なる。それに祈りには良きことを手繰り寄せるという思惑がある。そう考えると、ウラジミールとエストラゴンは祈ってはいなかったのではないか。二人は怠惰で歩くことすらかったるく、同じような会話をずっと繰り返している。ときには自分たちが待っていることすら忘れることもある。

彼らが絶望や期待を抱いているようには見えない。二人は欲望(願い)を欠いている。彼らには願いがない。願いがないので祈りも呪いもクソもない。ゴドーを待ちながらの二人は欲望を欠いた人間であるということを前提として今から話をすすめていく。

二人は死にたがっているとか、ゴドーとは死の暗喩であるとか、そういった意見はお門違いだろう。彼らは生きたいとも死にたいとも考えていない。なぜなら彼らは欲望が欠如した人間であるからだ。そんな人間が死にたいやら生きたいやら考えるはずがない。生と死は欲望の欠如の前では同じ色彩である=グレーっぽい。そんな人間がひたすらに待っているゴドーとは一体何なのだろうと考えるかもしれない。ゴドーとは何の暗喩なのか考え、そこに終わりやら、神の到来やら思いつく人もいるかもしれないが、ゴドーが何かは考えても意味がないだろう。ゴドーは謎のXであり続け、そこにはいかなる言葉をも当てはめられる。だから、彼らが何を待っているか、よりもなぜ待っているのかを考えた方が格段に話は面白くなる。

彼らがなぜゴドーを待っているのか、に切り口を入れていく。欲望を失ったものにできることとは一体なんなのだろうと考えてみる。おそらく待つこと以外なにもできやないだろう。待つという状態はこの世において最も退屈きわまりない状態だ。欲望のない彼らは終わりを待つ訳でもなく、始まりを待つ訳でもなく、この流れゆく時間のただ中にあって待つという状態にある。生も死もない彼らは待つこと以外できない。もはやこの場において、待つを行為と呼ぶ必要はないだろう。ぼくらに不意に訪れる状態がある。待つは至極退屈なのだ。ぼくらは退屈を恐れる。恐れるあまり、あらゆることを行おうとする。二人は退屈から逃れる術どころか、そういった願いすらない。そして、死がない、つまり終わりがない。この作品がアンチクライマックスの代表作と言われる所以がここにある。

物語は平凡な日常であれどこが舞台であれ、何かが始まり何かが終わる必要があり、読者はその凹凸を見て楽しむ。現実は物語みたいに甘くないのよ、とはお母さんが子供たちに使う常套句だ。その通りだろう。多くの物語は甘すぎる。考えてみてほしい。日常を生きていて物語のような凹凸のある出来事が多発することなどあるだろうか。証拠にそういった瞬間に立ち会った場合、『ドラマみたい』『漫画みたい』と現実に起こっていることにも関わらず、物語になぞらえる。わたしたちの現実は悲劇も喜劇もあんまり起こらない、滑らかで平坦な日常である。

ゴドーを待ちながらは物語に日常をぶち込んだ。物語は伏線、起承転結を失い、そして、物語は悲劇とは質の異なる、冷酷なる事実性を得た。甘い夢を見ていた人間たちは、ゴドーを待ちながらを読みハッとするだろう。この物語は現実と無関係の話ではないということに。これは物語であり、ただの物語ではない。恐ろしく平坦であり終わりがないこの世界はわたしたちが直面しているこの日常かもしれないのだ。

こう言う人もいるだろう。ゴドーを待ちながらは前提から死を剥ぎとっているが、現実には死があるので物語の域をでないと。まくし立てても無駄だ。死がほんとうに終わりであるという保証はないのだから。ゴドーを待ちながらの功績の一つは終わらない日常を提示したことにある。人類の終わり願望を幻想を打ち砕いた稀な作品。

ああ、やってしまった。いつもの話になってしまった。次はゴドーを待ちながらについてもっとおもしろいことを書こうと思う