瞬間の王

あれはなんて匂いなんだろう。リステリンってなんなのだろう。アルコールの匂いは大好きやけど、リステリンの匂いはあんまり好きじゃない。そういや、リステリンは口をくちゅくちゅするやつか。まあいいやあの匂いはあんまり好きじゃないのだ。ぼくはもうダメかもしれない。いいや、そんなことは第一ないのだけれど。ぼくはあんまりにも、ものを数えるのが苦手である。正確性を求められれば求められるほど困ってしまう。

帽子をかぶって家に出たつもりだったのだが、玄関を開けてみると朝かぶっていたはずの帽子がテーブルの上にある。NOAHのきいろいキャップだ。帰宅中なんども帽子をかぶろうかなあとか考えてたのだけれど、カバンの中には帽子は入ってなかったのかもしれない。職場に着いたときは、たしかに上着を脱いでその下に帽子を置いたはずだし、休憩のときも帽子をかぶるかどうか悩んだ。いずれにせよ、一度も帽子を確認していない。カバンの中にしまったという記憶はあるが。

そういえば、今日の朝、幽霊を見たのだ。これでたぶん、二度目になる。一度目は磯で、二度目はコンビニのトイレだ。消えるまで人間と幽霊の区別がつかないので、人間ではないかという思いもあるが、それでは、あまりにも人間中心主義すぎるので幽霊ってことにしてもいいのではないかと思う。この世界は生きる者の声に耳を傾けすぎている。キキちゃんも見たことがあるらしい。亡くなったキキちゃんのペット(キキちゃんは動物すべてが恐怖の対象)ハムスターのチョビが大野さんの布団を横切ったそうだ。

磯で会ったときは、ちょうど流木を探している時だった。冬場だったので磯にはぼくと幽霊しかいなかった。人間だと思ったので声をかけるつもりだったし、反対側から手ぶらで歩いてきたものだから向こうにも流木がないのかと考えたりもした。知らん間にいなくなっていたのだが、海は磯と鉄道のレールの石台に挟まれている。だから生ある者の道は行くかと戻るかしかないのである。

で、今日はコンビニのトイレだった。彼女は紫とピンクの○○クリニックと胸元に刺繍が施された制服を着ていた。ぼくとは反対側の入り口から登場してきてトイレにさっと入った。その入り口はビルと直結していたから、どこかの従業員だろうとおもったので、店舗のトイレでトイレせーよと思ったりしながら並んでいたのだが、よく見ると鍵が閉まっていない。こんこんとノックする。返事はない。扉を開けてみるとだれもいない。

幽霊は人間と同じようにいるのだろう。道に生えてる雑草、通行人の顔をいちいち認識していないように幽霊も認識できていないだけでちゃんといる。ピントが合うと出会うのだろう。見えないものは存在しない。あまりにも視覚本意な考え方だ。危ない。そうなると地球の裏側に人間はいないはずだ。視覚は大切だ。しかしながら視覚は瞬間の王でなければならない。王は瞬間に宿る。そこから延長線を引っ張ってはいけない。あくまで瞬間である。王は瞬間である。

王という言葉が気になっている。王をぼくはスポーツ用語でいうゾーンであると考えている。王は動詞である。王になるということだ。だれしもが瞬間の王になっている。今の王の使われ方は気に入らない。王になりつづけることが王であると考えられているかもしれないが、王はなるものでなり続けられるものではない。王から瞬間を奪うと王ではなくなる。それは形骸化した王だと思う。『瞬間の王』という詩を最近書いた。

王とは聞くことなのかもしれない。居酒屋で話をしていると、全員が耳を澄ませているような気がする。そして、いつのまにかみんな同じ話題を話し始めている。瞬間の王とはその瞬間に全てを聞くことのではないか、空気になることなのではいか。熱になることではないか。一時的に公共になることではないか。