スピード

車の法定速度は60kmである。馬もだいたいそれくらいのスピードで走るらしい。高速なんて100kmである。機関車ができた当時、そのスピードはよく知らないが乗客は目を回したらしい。
馬に乗るときはお偉いさんも慣れるまで、さぞかし怖かったろう。一般庶民なんて怖くて乗れなかったろうし、そもそも所有する金すらなかっただろう。速い乗り物は富裕者の特権であった。

今でこそ車は一般的に普及し、人外のスピードを持つ乗り物に誰でも乗れる時代になったが、慣れるという人間の特性、常識があまりにも怖いなあとつくづく体感した。ブラジル産の豚肉が日本産の豚肉より安い。今でこそ常識であるが、地球の裏側からやってきた肉である。この世界を知らない人が見れば驚愕するに違いない。

ぼくが生まれたときには既にそれが当たり前な世界だったから、少しの違和感を感じたもののすぐに慣れた。原理は簡単だ。コストが安いところでいっぱい需要のある豚を殺して船に乗せたら安くなる。距離は金である。スピードに関してもそうである。生まれた時から自家用車があり、バス、電車、飛行機があった。
人間は環境によって変わる。縄文人の乳児を現代社会で育てれば普通に現代人になる。縄文人と現代人に脳の差異はないらしいから、環境にも適応する。社会は進歩したわけではない。様態が変わっただけである。人力以上のものにも臆せず向き合う現代社会でも、死者はなおもより畏怖の対象である。

スピードに慣れたくなかった。シャーマンでもないのに人力以上のものを操るような危なっかしいことはしたくなかったが、街から抜け出すためには、それに頼らざるを得ない。で、まあ渋々とった。
車を操縦したときにとてつもない違和感を感じた。どの運転者も予定調和を信じすぎているということである。操縦は技術よりも、それを上回る勘によって占められている。それがたいへん恐ろしく感じられる。車は人外の力を持つ。それが勘によって操られている。年間で4000人事故で亡くなっている。

予定調和をハナから信じていない人間にとってはこんなに恐ろしいことはない。



無能な神様と欲深い人間

コオロギがベランダで鳴いている。こいつは律儀に玄関から入ってきた。あー玄関で鳴いているなあなんて思っていたらいつの間にか部屋に上がってたみたいで、夜中の3時ごろにやかましく鳴き始めたのでベランダに放した。それから数日経つが、まだベランダにいる。

少し寒くなった夜を求愛の羽音を鳴らせながら越えるコオロギ。だれかいたらいいね。でも、ここは二階である。一体だれに向けて鳴いているのだろう。アパートの下にはたくさん他の奴らがいるだろうに、どうしてお前はここに来たのか。でも、ほんとうだれかいたらいいね。

飯は何を食っているのだろう。心配である。壁の下を這って隣の部屋にも行けるだろうに、なんでおまえはここで鳴くのか。もしかしたら、昼間はべつのところに行って夜になると戻ってきて鳴き始めるのかな。だとすれば、なお、なぜここで鳴いているのだろうか。


教習所の便所にコオロギがハマっていた。ぼくは便意を堪えて丸めたティッシュでそいつを掬った。もう一匹羽虫が浮かんでいたが、そいつは既に死んでいたので糞と一緒に流した。

土に還してやろうと一瞬思ったが、死ねば終わりよ。蜘蛛の糸は生きる者にしか届かない。もう少し生きてれば生きられたかもしれないが、そんなこと言っても仕方ない。それがいつやってくるのかなんてわからないもんだ。来るまでもがくのか、祈るのか、いずれにせ生きていなくてはできない。

奇跡的にコオロギは生還した。奇跡的にと言っても道端に落ちてる石ころを拾うくらいのちゃちな奇跡だ。奇跡なんてちゃちだ。どこにでも落ちてる。どこにでも起きる。ちゃちな奇跡の集大成が人間だ。たまたま生きている。たまたまが奇跡でちゃちでどうしようもなくありふれた奇跡である。


話が脱線したが、コオロギをたまたま助けた夜にコオロギが玄関へやってきた。たぶん、別のコオロギだろう、と思いながら届かないロマンについて考えた。

コオロギは鳴くことしかできない。人間に惚れたコオロギは同種にそうするようにぼくにも鳴くことでしか愛情を示すことができない。ぼくはコオロギのメロディを愛であると受け止めることはできない。せめて愛かもしれないな、と耽ることしかできない。愛のメロディであっても間近で聞くとほんとうにうるさい。

コオロギのメスは泣かないらしいから、あいつはオスでホモなんだろう。性別以前に僕らが心を通わすことなどないのだから、コオロギが人間のオスであろうと豚のオスであろうと問題ないだろう。雌雄の問題はほとんどモーマンタイである。


コオロギは慰めてくれているのだろうか。頭から汁を垂らせながら貪り掻くぼくに秋を届けてくれてるのだろうか。まあそんなことどうでもいいか。たまたまそうなっている。たまたまそうなっているから、明日にここを離れることが決まったら、しっかりとさようならをしなくてはいけない。

勘違いでもやるべきことだろう。あいつがぼくが好きで鳴いているのだとしたら、いるはずのない相手に向かって鳴き続けることほど空恐ろしいことなんてないだろう。哀れで惨めで、忠犬ハチ公なんてたまったもんじゃない。

言えるならさようならとしっかり言ってやるべきだ。伝わらなくても。そういえば、いなくなったのかと後から気づくかもしれない。葬式みたいなもんだ。死人におまえは死んだって言ってあげなきゃ、惨めだろう。そいつは死よりも長い時間、聞こえもしない声で好きな人に語りかけるんだから。哀れだ。


明日は卒研である。一発で通ったらいいねと教官からお祈りされている。確かに通ればいいね。ぼくもそう思う。もしかすると通るかもしれない。だから、今日は自転車に乗ってフラフラしてみた。神社をいくつも通り過ぎた。お願いについて考えてみた。自分なら何を願うか、願うわけがない。

とつぜん、『おい、邪魔すんなよ』と願うおじいちゃんの姿が頭をよぎった。邪魔をすんなよと願ったところで、それもお願いであることに変わりない。でも、かっこいいなと思った。おじいちゃんの意思がお願いという枠を貫くような勇ましさ。二項対立には収まりきらない膨張というか。


ぼくの祖母は熱心な真言宗の教徒である。お参りの際は、いつも住所名前生年月日名前、誰の息子かを言わされた。で、いつも思っていた。神様というやつはどれほど無能で、人間はどれほど欲深いのだろうと。願いだ。ぼくは口で願い事らしきものを言いながら「お邪魔します」と挨拶をする程度にしか熱心になれなかった。 そんな酢えた子供がいまこうしていい年になった。あの頃の自分は間違っていないと今でも思っている。

祖母が信じているらしい神とやらよりも、もっとちゃちで道端に落ちている石のようなありきたりでありふれた奇跡を適当に起こしているのが神なんだと思う。だから願う必要などハナからない。勝手に蜘蛛の糸が垂れてくることもあれば、垂れないこともあるだろう。もしも、ぼくがお願いをするに至るならば、命をかけて他人について願うだろう。ぼくは決してそれを願いとは言わない。祈りと呼ぶ。







足首川


気がついたら10キロ漕いでいた。昼下がりに実技が終わったので宛てもなく自転車に乗っていた。距離も距離だったので国道を逸れた。

白く濁った中筋川にかかるタツノコ橋を渡るとエノという村につきあたった。しばらく進むと底の石どもがありありと見える川が現れた。

中筋川の支流か、その川上に伝う道路を川下から駆けた。途中、倒木してる箇所があったので自転車を止めた。それと同時に国道を爆走しながら聞いていた音楽も止めた。

道すがら杉が何本も倒れていた。川の中に杉が生えていた。もやの中に木漏れ日がさして、粒子みたいに小さな胞子が空から降っている。舞っている。懐かしい気持ちがする。

道は途中から獣道になった。イガイガの栗が地面に転がってるのを見てからしばらくたっていた。

川辺の道は消え、車が一台やっと通れる道はもはや落石、枝木、根っこを天に捧げる樹木、それらにまみれた苔、名も知らぬ植物たちの黄金時代を迎えていた。朽ちた木には名も知らぬキノコたちが群生し、エンヂンのようにたくましく轟々となる川は、音よりもやわらかい水温でぼくを迎えた。川は浅かった。足首か、深くてふくらはぎ程度の水深で、その明度はとんでもなくクリアだった。

川底で真っ赤なオーセンティック(靴)がやらしく光った。自分の足なのかどうか分からぬほど艶やかに見えた。河童の足はこんな感じなのだろうか。川の水で足を洗う。手を染める、足を洗う。人間の手は汚れる。足は土地に馴染む。

いくつか、人工の滝のようなものを超えた。旅は家に帰らなくてはいけないだろう。それが信じられない。山も登ったら降りないといけないだろう。そうでもしないと死んでしまうのだろう。

以前の滝よりも大きな滝が見えた。超えられそうになかった。川はもっと深く、先は倒木に満ちて、踵を返した。

浅い川。どこまでも、死んだように静かな川。川面に折れた杉か、斬られた杉かが顔だけを浮かべて空を見上げていた。死んだように静止した川。生死が川を下っていく。ぼくが進むぶんだけの波紋。それが円を描いて消えていく。あの空から放たれていたものは本当に胞子だったのか。あれがマイナスイオンの空を流れたとき、ぼくの心から何かが零れた。

あれは本当は、なんだったのだろうか。蝉の小便にも見えたが、蝉はほとんど死に絶えている。

もうすぐ秋が来る。サルも山から降りてくる。狸やイタチは道端で轢かれてる。「ああ、猿に会わんかったか、縄張り荒らしたらあいつら怖いからのう。ボス猿がおるけん」ハハハハハ。

オーセンティックの赤い靴は乾いて汚れている。未だにしぶとい木屑が付いている。ぼくは白い枝木を二本ちょいと拾って頭につけた。鹿のマネをした。底知れぬものが湧きそうだった。誰か俺を撮ってくれ。と思った。枝木をグラミチのハーフパンツに挿した。悲しかった。手放したのは惜しかった。でも、一体この街のどこで鹿になる必要があるのだろう。何者かになる必要があるならば、写真なんて生まれないだろう。

皮肉でも何でもなくて、眼球カメラとメモに書いた。



それは仕方ない


車に乗れる気がしない。車に乗るのは好きである。乗れば乗るほど好きになるだろう。そんな気がする。ただ、交通マナーとやらが分からない。後方よし、ウィンカー、左よし、右よし。とか安全確認が苦手である。それにもまして教えてもらうのが苦手である。


よくもまあみんなは、ぬけぬけと車に乗ってやがる。車のほとんどは勘みたいなものじゃないか。交通ルールをみんなが守っている。守らない者もいる。ルールは奇跡的にルールとして認められている。


みんな天才じゃないか。車に乗れるなんて。ぼくがもしミッションのまま教習を受けていたとしたら、すでに二泊延泊が決定していただろう。はじまって、二日目にして大手をかけていた。


たとえば、車の免許が欲しいとぼくより望んでいる人ははたくさんいるだろうし、望んでいない人はもっとたくさんいるだろう。


その内の数パーセントはぼくのように実技が全然ダメなのだ。信じられるか、自分がその数パーセントなんて。


「普通にしてれば卒業できます。ほんとにたまにかなり時間かかる人もいらっしゃいますが」ぼくは薄々勘づいていたが、そのときは笑えた。お伽話のように聞こえたのも確かだったから。


数パーセントである。ぼくはだいたい何でもできない。普通に人ができることを普通にできた試しがない。見た目はだいたい何でもできそうなのに、初めてのことはだいたい何もでもできない。だから、みんなびっくりする。


ものすごく時間がかかる。閃きみたいなものを感じるまでにすごく時間が要る。どうやら一つ不明瞭な点があると、そこから虫が湧いてきてぼくを暗くする。


閃いたあと、と、閃くまえのぼくは別人に見えるだろう。ただ、その時期が本当に来るのか、来ないのか、いつも分からない。


たまにスパッと辞めたりもする。粘り強くやることもある。どちらを選んでも自分の弱さを感じる。


「自転車に乗ったことある?」と教官から言われたときにぼくは笑ってしまった。あ、やっぱり数パーセントやったんかと。脱輪したとき、久しぶりと教官は漏らしていた。慣れだよクソ野郎。

自転車のテクニックでおれに勝てる奴はいない。


真面目過ぎるのだろう。考え過ぎるのだろう。気にしすぎるのだろう。ぼくの性格はいつもこんな感じだ。こういう人間を愚かな人間と言う。


知らない街を自転車に乗って彷徨う。後方よし、右よし、左よし。しっかりと後方のあとはウィンカーをつけるように右手を動かす。でも、リズムが狂う。こんな簡単なことでも一瞬魔がさしたり、急に始めたりするとダメになる。ぐちゃぐちゃになる。初めてレジを触った時のことを思い出していた。

しばらく自転車をこいで、大きな赤い橋を渡った。振り向くと、四万十川が見えた。犬を連れてるおっさんと目が合った。犬が吠えた。夕日は見えなかったが、空が赤かった。すらすらっと切り立った雲に紅やら赤やら黄やらが差していた。

こんなに近くに見えるのに四万十川の河口は10キロ先だった。

コンビニで弁当を買ってベンチに座って食った。爆弾おにぎりをほうばったら泣けてきた。車の免許ごときをストレートに取れない自分の不甲斐なさ。


世間一般のことを気にしないとか言いながら何かとぼくは気にしたりする。世間一般的に普通にしていたら卒業できるらしい教習所はぼくにとっては鬼門だった。普通にできることでできないことが多すぎる。

どれだけ社会不適合なんだろうか。社会不適合なりに誇れるものがあればいい、社会と別に生きれるくらいに。ぼくには未だない。この先にあるかもわからない。こう言う人間を愚かな人間と言う。









おれと坂口恭平

このサイ、はっきりと言ったほうがいい。ぼくは躁鬱ではない。数年前にそう思うこともあったが、さいきん強くそうではないと考えている。ぼくは飽き性で過敏な、いわば、ただの子供である。情緒不安定である。持続しないハイとロウを間欠的に営み、その振れ幅に疲れる。ただそれだけの気分屋である。

躁鬱かもしれないと考えた理由は坂口恭平の影響が大きかったのかもしれない。むかしから坂口恭平の言葉が自分の書いたものではないか、と勘違いする日々があった。坂口恭平の文に自分を重ねるというよりも、これは俺が書いたものだ、なんで坂口恭平の書いたものなんだと強く感じることが多々あり、今でも多々ある。でも、実際、他人同士なので、単純な考えではあるけど、おれは躁鬱かと考えるようになった。

むかしから坂口恭平に似ていると言われることが多々あった。話し方とテンションが似ていると。ぼく自身も文問わず、坂口恭平の写真やら見ていると変な感じがする。他人と隔てられたこの肉体とか、分かり合えるはずがない、とか普段から言ってるのにおかしな話だ。しかしながら、それ以上にわからないところもあるから、あながち矛盾はしていないだろう。

で、坂口恭平の文を自分が書いたように思うことについてだが、坂口恭平の文を読んで自分の書いたものを見返すとぜんぜん似ていない。ぼくのものは悲壮感に満ちて、アドレナリンにあふれているときもあるけど、実際物悲しく、明るいものがほとんどないし、つねに迷いのなかにあるような、霧の中で、それが霧なのかどうかさえ分からないし、何も信じきれないようなものが多い。

あれだけ似ているなとか思っている坂口恭平がぼくの作品には存在しない。でも、ぼくは書いたような気分がしている。おかしな気がする。もしかしておれとシンクロでもしているのか、とか超人的なことも考え出す始末である。

ぼくは懐疑する。坂口恭平は迷わない。似ているのは嘘をつかないこと、それだけだ。では、ウソをつかない ものすべてがおれに似ているのかというとそうではない。

ベケットツェランもアイヴァスもマルケスも全然似ていないし、似ていると思ったことはない。宮沢賢治安吾はまた例外である。1ヶ月前の出来事だけど、ペソアに関しては似ていると思った時期があり、アレンギンズバーグもそう感じていたときもあった。でも、坂口恭平はその一線を超えている。

思うに同じ時代に生きているからだろうか。坂口恭平の文は懐かしさがあって、ハイでもロウでも鬱蒼と茂る文の群生であることもあって。単純に坂口恭平が好きなのだろう。嫉妬もあるのだろうか。生きている人間の文は、その人が生きている限り読みにくい。

今まで、どうすればハイを持続できるのかと考えたことがなかった。ハイになっているときは書くのが追いつかないので、歌うか話すくらいしかできないし、個人のものというよりも誘発が多い。だからロウの部分を大切にしてきた。

だから、ロウのノリでハイな文を書くことが多かった。一度、考えてみよう。ハイの状態について。最近はキキちゃんと話すときだけハイである。これからの仕事について考えるのもロウを主に置いて考えるからだ。

坂口恭平は静かなるハイだし、スーパーハイにもなれる。そして、ウツにはしばらくなっていないと聞く。ぼくは躁鬱じゃないけど、坂口恭平の生き方を参考に実践してみようと思う。

無意味に対する賞賛に対する苦言


先日、ブコウスキーの探偵小説、パルプを買った。解説やらが二つ付いていて、その内の一つがあまりに不快だったので千切ってしまった。この本から意味を見出すことは無意味であるという一文がその破ったページに書かれてあった。


『おれは死という名の淑女と宇宙人の間に挟まれている』というような一文がパルプのなかで語られていて、ぼくはひどく感動したのだ。こんなにも簡単な言葉回しでこんなことが言えるのかと。パルプにはブコウスキーの顔が浮かび上がっている。


どんな文章であっても、落書きであってもそれが作者の顔を浮き彫りにする。と、それが稚拙であれ優秀であれ、ぼくは思っている。作者はその意図を認めないかもしれないが、意図するかせざるかは問題ではない。確実にそのときの気分やら躍動、作者が飼っているものが提示されていると思う。


それを無意味であるとルサンチに決め込んで投げ捨てるようなやり方は思考の放棄であると考えている。思考とは考えること、感じることの間で生まれるものである。


また、読み手が勝手に解釈することも読書の醍醐味だろうし、作者の意図を考えることと同じくらい大切なことであり、むしろ乱暴で勝手な解釈が新しい解釈を生むと思っている。


それなのに解説側の人間が無意味であると、言い捨てることに疑問を抱く。賞賛のつもりか何だか知らないが、正直ダサいし、そんな奴が本を読む資格があるのか。もちろん本を読む資格なんてないから、本を読む覚悟があるのかと置き換えても遜色ない。


意味を求めるのは人間の性だ。ただの数字の配列も人間にとっては意味に変換される。それに対置して無意味という概念がもてはやされたが、そんなもの遥か昔の概念である。全てのものは無意味だろう。無意味で美しいだろう。そして、そう考えることさえ無意味だろう。無意味であるから価値が見出されるのだろう。無意味の概念が否定したことは、意味の鋳型に豊穣な可能性を封じ込めるなということだとぼくは思う。


意味の鋳型とは、既存の解釈である。オイディプス的な解釈である。全てを家庭の問題として解決しようとしたらしいオイディプス的な解釈である。逆に言えばオイディプスオイディプス的な解釈から解き放つことが無意味という概念が叩きつけられた理由なのではないか。


ぼくは無意味に対する賞賛を嫌う。逃げるな。闘え。逃げることと闘うことは似ているだろう。しかしながら、この場合はこの二つは全く相容れない違いである。


ありきたりで真新しい退屈と闘え。ブコウスキーは小説を書いた。