おれと坂口恭平

このサイ、はっきりと言ったほうがいい。ぼくは躁鬱ではない。数年前にそう思うこともあったが、さいきん強くそうではないと考えている。ぼくは飽き性で過敏な、いわば、ただの子供である。情緒不安定である。持続しないハイとロウを間欠的に営み、その振れ幅に疲れる。ただそれだけの気分屋である。

躁鬱かもしれないと考えた理由は坂口恭平の影響が大きかったのかもしれない。むかしから坂口恭平の言葉が自分の書いたものではないか、と勘違いする日々があった。坂口恭平の文に自分を重ねるというよりも、これは俺が書いたものだ、なんで坂口恭平の書いたものなんだと強く感じることが多々あり、今でも多々ある。でも、実際、他人同士なので、単純な考えではあるけど、おれは躁鬱かと考えるようになった。

むかしから坂口恭平に似ていると言われることが多々あった。話し方とテンションが似ていると。ぼく自身も文問わず、坂口恭平の写真やら見ていると変な感じがする。他人と隔てられたこの肉体とか、分かり合えるはずがない、とか普段から言ってるのにおかしな話だ。しかしながら、それ以上にわからないところもあるから、あながち矛盾はしていないだろう。

で、坂口恭平の文を自分が書いたように思うことについてだが、坂口恭平の文を読んで自分の書いたものを見返すとぜんぜん似ていない。ぼくのものは悲壮感に満ちて、アドレナリンにあふれているときもあるけど、実際物悲しく、明るいものがほとんどないし、つねに迷いのなかにあるような、霧の中で、それが霧なのかどうかさえ分からないし、何も信じきれないようなものが多い。

あれだけ似ているなとか思っている坂口恭平がぼくの作品には存在しない。でも、ぼくは書いたような気分がしている。おかしな気がする。もしかしておれとシンクロでもしているのか、とか超人的なことも考え出す始末である。

ぼくは懐疑する。坂口恭平は迷わない。似ているのは嘘をつかないこと、それだけだ。では、ウソをつかない ものすべてがおれに似ているのかというとそうではない。

ベケットツェランもアイヴァスもマルケスも全然似ていないし、似ていると思ったことはない。宮沢賢治安吾はまた例外である。1ヶ月前の出来事だけど、ペソアに関しては似ていると思った時期があり、アレンギンズバーグもそう感じていたときもあった。でも、坂口恭平はその一線を超えている。

思うに同じ時代に生きているからだろうか。坂口恭平の文は懐かしさがあって、ハイでもロウでも鬱蒼と茂る文の群生であることもあって。単純に坂口恭平が好きなのだろう。嫉妬もあるのだろうか。生きている人間の文は、その人が生きている限り読みにくい。

今まで、どうすればハイを持続できるのかと考えたことがなかった。ハイになっているときは書くのが追いつかないので、歌うか話すくらいしかできないし、個人のものというよりも誘発が多い。だからロウの部分を大切にしてきた。

だから、ロウのノリでハイな文を書くことが多かった。一度、考えてみよう。ハイの状態について。最近はキキちゃんと話すときだけハイである。これからの仕事について考えるのもロウを主に置いて考えるからだ。

坂口恭平は静かなるハイだし、スーパーハイにもなれる。そして、ウツにはしばらくなっていないと聞く。ぼくは躁鬱じゃないけど、坂口恭平の生き方を参考に実践してみようと思う。