可能態

作者の意図とは裏腹にそう読むことも可能であることを可能態と呼んでいる。たとえば、ジブリの都市伝説なんかも作品の可能態だと考えている。

作品は作者のものではないし、そうでもある。作品は公である。公を占領することはできないが、作者は王である。作品は空座の王によって生み出されるが、王はその可能態を否定することはできない。なぜか、人間はべつの人間の視点を踏みにじれないからだ。批評とは作品の可能態のなかに眠るひとつの正しさを導くものである。人間はこの批評のもと作品を生み、作品にべつの可能態を孕ませる。作品が生まれたとき、それを知らされたとき、それら二つは平行になる。公に登録される。

公衆は一つの化け物である。そこから解離する様を人間とよび、公衆は人間の可能態である。

仮の答えを提出しつづける

ある本の影響で読書の方法をかえた。

前のスタイルは憑依型で、他人を自分に憑依させていた。言語化不可能の域にまで他人を自らに憑依させ、言語を窒息させるスタイル。感想を聞かれると、痴呆症者の振る舞いのように答えることしかできない。やばめのスタイル。

わたしはもっぱら憑依型で影響をかなり受けやすい。それはいいことだが、限界のあるこの身では受け止めきれない。あらゆるものが無限に広がりすぎるからだ。

で、この方法では生きられないことにやっと気づき、情報を切断していくスタイルに切り替えようとしている。とはいっても、切断し過ぎず、情報を切っていく。潜在性に潜りはするが、現働化させ潜在性を広げ過ぎない。今までは自分の有限性(身体)を無視し過ぎていたので、ことばを失い、過剰なほどあらゆる本と接続していたので何が何だかわからなくなっていた。それを気づかせ、実践へ導いてくれた本が

千葉雅也『動きすぎてはいけない』だ。

この本を何度も読みすすめるにつれて、これはわたしのために書かれた本だと感じた。本書を読んでいると、スピノザライプニッツ、メイヤスー、マラブーを一度読まなくてはいけないような気がする。しかしながら、わたしが今読むべき本はこの一冊だけだ。

たとえば、それらの本を仮に買ったとする。求めていることは切断と接続の過剰さを調節することであり、それをいかに節約するかということ。いわば、仮の答えを提出し続けること。

それらを探すためにわたしが彼らの本をたらい回しに読めば、本書の意図ともわたしの意図とも逆行することになる。シニフィアンの連鎖のような状態にまた足を踏み入れることになるのだ。何度も読んでそれに気がついた。今はこの一冊を読む。買って半年以上経つ。この書物をしっかり使いたいと思う。

はじめの実践の場としてツイッターを短歌に切り替えた。これはいい。文字数という有限性のなかでツイートする。無限に膨らむ潜在性を断ちながら、ことばをはめていく快感。ときにはみ出すけど、ただの字余りだ。

切断し過ぎるジャニーズから接続し過ぎるSNSへ移行した香取慎吾もこの本を是非読んでいただきたい。きっと参考になる。

クラブミュージックに疎外感を感じる人、イエスかノーかという命令に嫌気がさしてる人にも是非読んでいただきたい。

3日間ほど同じものをつくっていた。飽き性が祟ってはやく終わらせる、目処をつけるという作業をしないと気がすまない。そこに居続けられないという気持ちがあって、たとえば鳥貴族へ行くと、まずぼくは腹を満たしたいので焼き鳥丼を頼んでしまう。そういうタイプの人間だから、ゆっくりと展開するのが苦手なのだ。

それでも、着実に距離は伸びている。3日で一万字を超えた。始めと終わりでだいぶ、心境が変化したので語り口もなんだか変わってしまった。一万字を超えて物語は終わった。というよりも、そのさきは週末でないと描けないのだろうと思う。あとがきという形で示されることになると思う。現状、原稿用紙に換算すれば33枚。海へ素潜りするような書き方をしている。それ以外にやり方を知らないのでしょうがない。さすがに50枚までは伸びないだろう。

書いていくと不自由さを感じる。自分の書いたことによって次の一手が拘束されていく。そう感じたならそれを逆手にとって進むしかない。それが解決されると束縛を忘れ、べつのことに熱中し始める。結果、知らない間に夜が更ける。

というか、今週は色々と書いた気がする。二時間で済むものあれば、一日かかるものもあって、

気づけば何とも言えない物語を作っていた。批判されればされるほどその作品と化していくという謎の構造を孕んだ物語となった。バグみたいな物語。謎の本質は解けなさにある。

謎は穴である。埋めようとすればするほど、穴のまわりを廻るはめになる。こんなアホなん作りたくなかったけど、どうしようもない。批判でなく批評じゃないと、穴を廻るはめになる。

詩の方が作品として成り立ちやすいような感覚があるから物語を千切って散らしてたが、ついにはその形態にも無理が生じて文章に起こしてみた。すると7時間くらいモーターが回った。

寝ぼけながらいうジャーナリズム的な視点で書いている笑いの王ってやつは、強烈にアンチで像を結ぶよりも線でアキレス腱つくるみたいな感じやからいつでもできる。

接続しすぎてかけなくなったタブレットにある作品群はタコを凧にして解いていったらいけるかなって感じなのでいつか頑張ろうと思ってる。『もうひとつの街』アイヴァスを参考に書いてたらついにはアイヴァスと同じような苦しみを味わうはめになって途中でやめた。

それよりも、気になってるテーマがあって本の土台、紙の外在性について。ものとしての本があり、読書の本がある。文字にしろ言語と絵画のあいだでいつも揺れてる。それらの下には勿論紙がある。紙ってすごい受動的にみえるけど中動的やろう。外在的で中動的で、かみさまなんちゃうかと疑ってる

インスタ

インスタをしている。基本的にはキキちゃんと2人でやっている。ほとんど自分の格好を記録するためにやっている。当初の目的はそれプラス、一つのアカウントを多数で運営するのが目的だった。というか、それが主だった。

一人は一人であり一つの目から成る。それが複数集まれば、人数分だけ目が生まれる。また、その複数がぼくとは別のコミュニティに属しているから、タイムラインに他人が出てくる。いわば、ぼくは他人の内輪話に参加させられる。それに参加するかどうかは別として。

そこにおもしろさを見出した。それぞれのコミュニティ、装い、全く関係のない人間たちとは言い切れない知らない他人たちと同居するようなSNS。私物とは言い切れないアカウントをそれぞれ個人的に行うようなアカウントに憧れていた。自分とは別のものが勝手に更新しているにも関わらず同じアカウントであるということ。

匿名の人間によって寄稿される雑誌みたいなのをインスタではしたかった。今でもそうなればおもしろいとは思うが無理なので、個人アカウントへ切り替えようと考えている。というか、現状がそうなのでそのままか。

今まで通り、基本的には、はキキちゃんと会っているとき、自分の格好を投稿する。ぼくは自分の格好に興味があるし、自分の写真集が欲しい。これはナルシズムじゃない。近くて遠い自分が気になるのだ。

今と過去が直線的に繋がっているような感覚がぼくにはない。断片と断片で一時的に接続されるようなことはあるだろうが、ぼくがぼくであり続けたことは一度もない。ぼくという固有名詞があるだけだ。固有名詞を嫌悪しているわけじゃない。不思議なのだ、この不正が。ぼくがぼくであり続けるという不正が。ぼくという固有名詞がなければ書くことは愚か、話すという感覚さえなくなるだろう。つまり、名を持たぬ人間は人間でなく別の生を全うする。

ぼくという最低限で揺らぎやすいが、決してボヤけない輪郭がぼくを人間とたらしめている。風を感じよ、と人が言う。厳密に言うなら、風を感じている身体を感じろということで、風と肌を隔たる我を知れということである。ぼくらは皮膚によって、中身を保持しているそれが解けるとどうだ。ぼくらはぼくを失い、全体へ溶けてしまう。つまり真の意味でぼくらになってしまうということだ。

インスタグラムは自分が自分であり続けることの不正を感じながら、首の皮一枚で繋がる主語を大切に思う気持ちから稼働している。それにわかりやすいだろう。ツイッターよりも自己紹介に適している。どんな投稿でさえも利用者の思惑が伝わる。

当たり障りない投稿とも、オシャレを心がける投稿ともぼくは無縁である。ぼくは生活を投稿している。ぼくは不正まみれのぼくを投稿している。だから、撮るときは毎日、その時の自分が好きな格好をしている。それにキキちゃんにも申し訳ないじゃないか。寝巻き姿で会いに行ったりするのは。

むかしのハロウィンは酷かった

「火あぶりにされたサンタクロース」

という本がある。レヴィ=ストロース中沢新一が著者である。四年前に読んだのであんまり覚えていないけど、ハロウィンとクリスマスについて考察した本なのだが、その本によれば昔のハロウィンはとんでもないものだった。

内容についてざっくり説明するとハロウィンで死者招来、クリスマスでプレゼント渡して死者にお引き取り願うというようなもの。この死者というのが、子どもにあたる。もうちょっと折り入って説明すると、レヴィ=ストロース俺変換によれば、死者を子どもにみたて、もてなし、来年の豊穣を祈願するといった宗教行事がハロウィン=クリスマスにあたる。うろ覚えだが、こんな感じだったはず。日本人なら染み深いよね、死者をもてなし豊穣を祈る行事。

ちなみにハロウィンはキリスト教の行事ではない。またクリスマスにプレゼントを与えるというのもキリスト教の行事ではない。彼らからすればこれは異教徒の文化である。接続詞の使い方に困るが、事実として、1951年フランスのある教会がサンタクロース人形を火あぶりにする。民衆の前で。それが発端となり大論争が起きたらしく、ついにレヴィ=ストロースが口を開く。

分析は、キリスト教以前の信仰とキリスト教キリスト教後の資本主義と資本主義以前からのキリスト教といった二項対立で話が展開されていく。

中沢新一が何書いてたか忘れたけど、レヴィ=ストロースはこんな感じで話を進めていったはず。

サンタさんが火あぶりにされたのも衝撃的な事実だったが、それよりも驚かされたのはハロウィンを機に爆発する子どもたちの悪童っぷりである。

子どもといっても青年も死者には含まれる。今でこそトリックオアトリートとか言うて可愛いものだけど、むかしは普通に女性を襲うわ、リンチするわで、とにかく悪行を尽くして街を荒廃させた。死傷者もいたような。それでも、大人たちは抵抗できなかった。なぜかと言えば、死者をもてなすことが社会の目的であるからだ。彼らにしてみれば、今、ここで思う存分暴れさせなければ、死者をもてなせなかったということになる。そうなれば、来年の豊穣は約束されない。

今では理解できない信心深さかもしれないが、彼らは自然界と人間界のバランスを保とうとする思考があった。そこを媒介するのが子供=死者である。実際にはイコールノットだ。イコールノットだから意味がある。死者を目で確認することなんてできない。だからこそ、死者を演じさせ、目で確認できるようにする。元来、子どもは現代における子どもとは別の意味を持つ。

掻い摘んで言えば、子どもとは小人であった。小人は大人=社会とは別の社会に属していると考えられ、小人=自然の領域に属する者として認識されていた。つまり、子どもは社会の成員ではなく、成人の儀式を終えてやっと大人に仲間入りする。どこの国のどこの部族でも成人式はある。なので、成人の儀を済ませていない者は子どもである。

気になる人はアリエスの『子どもの誕生』を参照してください。けっこう、ざっくり言ってます。小さい人は半分社会、半分自然です。立ち位置でいうと、カエルみたいなもん。一言にすれば両義的な存在だった。

話が脱線したので戻す。まあ、むかしのハロウィンは酷かったらしい。今や法外の行為がパブリックに堂々と行われることはないが、かつては法外の他者を迎え入れることが当たり前だった。子どもを孕んでも子どもは他者だから、よっぽどのことがない限り、生んだだろう。セックスもすごく軽かっただろうし、夜這いきたーみたいな感じだったのかもしれない。当時の思考と今の思考はそれだけ違う。

で、そろそろ、現行ハロウィンに対するパッシングでも言い出すのだろうと考えていらっしゃる人もいるかもしれないが、パッシングなんてできない。ゴミちゃんと捨てろよとかくらいだろう。

今のハロウィンをむかしのハロウィンはこうだったという論調でバッシングすることは不可能だし、とんでもなくナンセンスだ。今とむかし(どれだけ前かもしらない)は営む社会が異なる。つまり思考が違う。それに輸入文化だ

現在のハロウィンは良い意味でクラブ的である。仮装すれば、みんな友達。インスタ映え最高。場として人と人を繋げる場へと発展している。クラブはパブリックな発露の場ではないし。もちろん、友達欲しいやつらが集まるイベントだと思う人もいるだろう。そうかもしれない。でも、街を歩いていてコスプレしてる人がいるとおもしろいじゃないか。悪口もでるだろうが、恋もするかもしれない。

いいなあ、ぼくもしたことがある。ありふれたコスプレだったけど、おっぱいが凄かった。すらっと足が伸びていて、唇が真っ赤で。顔がとにかくめちゃくちゃ可愛かった。ただの恋である。こんなお姉さんと写真を撮るチャンスなんてないと思う。ナンパでも成功しないだろう人と写真が撮れるハロウィン。夢がある。ぼくはなぜか、パンツ一枚でスパンコールをクビに巻いていた。スベっても優しい。ああキキちゃんにキレられそう。

キキちゃんへ


冬のはじまりを知りました

ほんのり秋に染まった葉が

おちるのをみて


やってくるのかと思っていれば

やっぱりきましたね

冬ですか。


冬です。一夜ずつ、一夜ずつ

いずれピークを迎えます

また、わたしたちは知らない間に

超えてしまうのでしょう冬を


超えてしまうといえど

春の曙光をのぞむほど、

それは永く果てしなさそうです

想像です


秋はもうすぐ終わるでしょう

多少の秋をそのまま残して

ここにある秋も

されど、また忘れ物です

もぎ取ってきました、冬の空から

あなたと付き合った季節から

一年経とうとしています。