語りえぬもの

一昨日か。それより前か、チャリでアメ村へ行ったのだが、どこへチャリを止めたのかさっぱり思い出せなかった。よくあることなのだが、御堂筋沿いなだけに苦労した。交差点のどちら側へ止めたのかも定かではなかった。しばらく歩き、信号で止まりというのを繰り返した。大荷物を抱え、右往左往する。そう言えば、唄なんかうたってたな。うたうと忘れてしまうものだ。

一人でいるとき、歌をつくる癖がある。残そうと思って書き留めると失敗するので好き勝手歌わせている。遺すとなると、言葉に詰まる。それは録っても同じことで、不自然になる。『だれかに見られる』という感覚は不快なものだ。たとえ一人であっても。暗闇でさえ既視感に襲われる。既視感の前では粒子でさえ、波になるのを止める。

『メンチきったやろ」と言って喧嘩する人もいるくらいだ。視線の力は筋肉すら貫通する。不必要なトレーニングで身体を鍛える人間も、視線の力あってこそ、身体を鍛えるのだろう。西洋人はそれをよく理解しているのか、サングラスをよくつける。

目(見られる)=邪という図式は様々な文化に共通している。目は強烈な力の象徴なのだろう。花嫁のヴェールもムスリムヒジャブも目の力から人間を守るために生まれたものなのだろうが、そこから派生してこう言うことも可能だろう。目=所有するものである。目は捕らえた獲物を想像の世界へと送り込む。いわば、その世界は他人が犯せる世界でも本人が犯せる世界でもない。捕えられたものは、その世界で好き勝手にされるのだ。

しかし、見つめれば見つめるほど、他人はどうしようもないほど、赤裸々な顔を持っている。その人間もまた目を保有している。自分と同じように他人の世界のなかで別の私が生まれている。恐ろしいことではあるが、そんなに恐ろしくともない。きみよ、わたしを勝手に格子へいれるがよい。格子のなかのわたしはわたしではない。わたしときみから生まれた(わたし)である。 ああ、この世界には一体何人の『わたし』がいるのだろう。きみとわたしはダンスしているのだろうな。いやいやであれなんであれハレルヤ!

わたしは語りえぬものに言葉を紡ぐために生まれてきた。わたしは語りえぬものと不和を和平をもたらすために生まれてきた。日々、増殖し、消滅するわたし。日々同一性すら保証できない、このわたしもまた、刻々とわたしでなくなる。わたしの同一性は一人称によって担保されている。

髪の毛、垢、胃の消化物、日々黒ずむ肺。痛む右膝でさえ。