一瞬立ち昇り去っていくあの感情、あの光景はなんなのだろう。浸ることもできるず、追いかけることもできず、思い出すこともできない、あの事象をなんと呼ぶのだろう。かつて、それは古里と呼ばれていた。

すがることもできず、ただ過ぎる。眠りから目を覚ますとき、私は古里を喪失しているような気がするのだ。二度と戻れない夢の世界の最良な、最悪な思い出。眠るたびに異なる古里は、喪失すればこそ、温もりを感じる。

私たちは生まれて、言葉を覚え、自己の世界を喪失する。他者と繋がるために自己の世界は代替可能な言葉によって代替される。私という生命は名付けられる。名付けられることによって自己が生まれ、喪失される。

夢を見て目を覚ます度に、喪失されたものを再び喪失する。いや、喪失したことに気づく。私たちは同じ水たまりでない、水たまりに溺れて浮かび上がる。

数年前に考えていたことだ。人間は時間を浪費できない。時間を転がすことができない。時間は人間を転がし、浪費する。それを悦びだとある人は言った。まっさらな退屈の前には屈することもできず、ただ間延びした退屈が手だけ広げて人間の身体を弄んでいる。消費してくれない。退屈に食われても、退屈の胃袋のなかで退屈に食われないといけない。

疫病が人間の面を剥いで、一介のヒト科であると示したとき、人間である我々は退屈に食われる。