母子草

 

名の由来は諸説あるらしい。とりわけ有名らしいのが、茎や葉を白い綿で包んでいる様子から母が子を包んでいる様子だと偲んで母子草と命名された、というのがある。ほんと諸説ある。中には起源を遡れば、ホウコ草だったとか、這子草だったとか色々とあるらしいが、実際のところ由来なんてものはヴァリエーションを含意するものでなければ、何ともちんけで味気のない、懐古趣味的で、保守的な匂いのする、つまらないものに成り下がる。だから、いかなる由来も、各時代的な由来であろうと現代的なものものであろうと、同じほどの価値を持つ由来であるとぼくは思っている。そういうわけなので、由来を一つにしようとする力の働きにも人間の志向が現れていて率直におもしろいなと思う次第で、多様性恐怖症に怯える人間の姿を想像してしまう。

さて、母子草はむかし、草餅に使用されていたらしいが、いつの間にかヨモギで済ませるようになった。今を生きるわたしたちにとって草餅と言えばやっぱりヨモギであり、母子草ではない。なぜヨモギなのかはさておき、母子草が草餅の草から外されたのには理由があるらしく、一説によると杵と臼で母子を潰すのは縁起が悪いとのこと。これには神話の匂いがぷんぷんとする。もちろん、これが事実かどうかはわからない。しかし、現に語り継がれている話である。それだけで十分に人間の志向を反映している物語だとぼくは考える。

母と子を臼のうえで杵で潰し、混ぜる。それをみて、よくないと人が思い始める。可哀そうだと思ったのかもしれない。たしかに、母子に暴力を加えるのは人間としてどうかと思う。しかし、実際には、母と子が同じ臼のうえで潰されるとはいえども融合しあうのだから、可哀そうだというよりも卑猥ではないか。つまり、何が言いたいかと言うと、母子草の草餅は近親相姦的である。近親相姦はタブーである。母子草はタブーが濃厚になればなるほど厭われるようになったのではないか。多くの部族の例をみても、近親相姦(母と子の)はタブーとして設けられている。理由としては、政治的、経済的な理由で、部族の存続が危ぶまれるからである。もしも母子相姦が達成されれば、部族内の家族と家族とのあいだに交流が成り立たず、家族が部族から孤立していき、部族としての存在意義が失われるからである。勝手に生きられれば、部族という単位は崩壊する。

草餅の変遷は共同体の変遷を反映しているようにみえる。ある草に母子という名がつけられた。草餅にされる前か、後かはわからぬが、いずれにせよ、人間はそれの入った草餅を食らっていた。タブーさえも縁起として、儀礼として担いでいた。その心意気に縄文時代をわたしは重ねる。超自然的なものに畏怖はしつつも彼らとともに暮らしていたあのときのことを。死者をもてなし、そのもてなしには共に楽しむというのが含意されていたときのことを。しかしながら、いつの間にか共に楽しむから死者は除外され、生きているものとしか共に楽しめなくなった人間のことを。時代問わず、人間はこの二つの側面を同時に生きているとぼくは思う。そして、そのあいだにいるのが人間だとも思う。だから、どちらか一方をとるというのは不自然に思えてならない。

由来にしてもそうだ。起源説にあやかって枝葉を払うのも無限にかまけて裾野を広げるのも、どちらも不自然だ。言い方を換えれば、有限性を矮小化するものと有限性を知らぬもの。自由に暴れまわる想像を恐れてはならないし、それにかまけるのもよくない。

 

結論はよくわからないのだが、ことの発端を説明すると、身近な植物についてなにも知らない自分の世界が人間的にとても貧しいようなきがして、辺りを調べながら散策しているうちに、雑草、一草とっても色々とあることを実感したわけだ。わかってはいたが、どの草にも名前がある。せめて自分の周りの植物だけでもと思ったが、一日で知れるほど溝は浅くない。今回、母子草にしたのはもっぱら適当である。あのヴィジュアル自体に心を馳せたわけでもないし、幼少期のころ、あれで遊んだ覚えもない。

しかし、名前も知らない無数の雑草と無数の建物によく遊んでもらっていた。その中には母子草もいたに違いない。スミレの花を口にさし、ネコジャラシをしたため、ツユクサで指を切り、友人の住む団地で蝉しぐれを聞くだけがぼくの世界ではなかったはずだ。名前を知ることは、未知なものであれ、既知のものであれ、とても大切なことのように思う。それによって生は彩られ、貧しい世界が貧しく足るのではないかと思うようになった。

日記1

キキちゃんは体調がすぐれない。心に鉛の入ったような気持ちがするらしい。

ぼくとキキちゃんは何かしらよくない雲行きを察知していたにもかかわらず、会話を続けていた。会話、それはついぞ会話ではなかった。さかなの小骨が詰まったような不快感がぼくらを満たし、沈黙へと誘った。いくらか黙っていた。

キキちゃんはぼくが話し出さなければ、ずっと黙っていたかもしれなかった。そんなわけで、キキちゃんは泣いてしまったのだった。キキちゃんは、泣きながら何度もぼくにあやまった。泣いてしまったこと、空気を乱したこと、そのほか色んなことを。キキちゃんはやさしい。だから、ときどき自分に辛くあたってしまうのだ。誰かにあたることなど考えもつかず、自分を鋭く責め立てる。平常であれば、うまく乗り越えられるのだが、状態の悪いときには、自分を串刺しにしてしまう。どうやらキキちゃんはそういうふうな周期リズムで日々を生きている。よくもまあ、死ななかったなと思う。キキちゃんは強い。

話を聞くに、

気分のすぐれない休日のキキちゃんは、本屋へ行き、迷いに迷って、ガイドブック『コトリップ』を購入した。普段気キキちゃんは本を読まないからかなり息こんで決めたのだろう。それから選びに選び抜いたコトリップを、来週日曜日のデートに備えてルンルン気分で読んでいた。ここも行きたいな、あそこも行きたいなという具合に。これがキキちゃんの休日のお昼頃のはなし。気分のすぐれないキキちゃんはなんとか一日を無事に過ごせたと思っていた矢先のことだったろう。ぼくから着信が入った。

「コトリップ?しょうもな」

この一言がもはや蝋細工と化したキキちゃんの心を襲撃した。キキちゃんは鋭い痛みを感じたにもかかわらず、笑ってしまった。そして、ぼくは笑うキキちゃんに違和感を感じ、なぜか静かな怒りをたなびかせてしまい、ついにはキキちゃんを泣かせてしまった。キキちゃんは「そんなこと言わんといて」とは言えなかったそうだ。言葉が幾度も喉まできたが、傷ついた心からは屈折した笑い声しか漏れなかった。カフカの小説、変身の主人公、グレゴールザムザは虫になる。虫になったカフカはぴいぴいと音を鳴らすだけで不満を表す言葉を口にすることはできない。電話の向こう側のキキちゃんを襲ったのはそういう危機だったのだろうか。

「痛くても言葉にならないときはワンと啼いてほしい」

そう言うと、キキちゃんは笑い出した。屈託なく。

次の日、キキちゃんはぼくに会いに最寄り駅まで来た。チャイナシャツを来て屈託なく笑うキキちゃんはいかにも無垢でいつものキキちゃんだった。猫もすり寄ってきそうなほど、透明で、何でもない国道沿いの寂れた、スーパー玉出の明かり以外めぼしいものがない、玉出駅近 辺を、ぼくの周りを、とかく幸福に彩った。

スーパーの前には大量の自転車とそこへ集う、正の走光性の民。その中にホットパンツで長髪の男もいた。馴染みの人物とぼく。わたしは二度目とキキちゃん。男は金髪をたなびかせて颯爽と玉出に入り、ぼくらはその先を左に折れた。つまり曲がったことのない道を曲がって、行ったこともないのにクソ辛い冷やし中華をだす店と出会い、戸塚ヨットスクールを画面越しに眺めて、一昨日、道案内したスペイン人一行の今日の出来事を案じながら、ちょっと改装して新しくてなったようには見えないぼくのアパートメントへ帰った。そして、ぼくは今、かゆみを克服するためにワセリンを塗りたくり、筋トレに励んでいる。キキちゃんは眠っている。

あるべきものとはうまく付き合っていく。このかゆみにしろ、すぐれない気持ちにしろ。それ以外になにかすべきことなどあるだろうか。症状に屈せず、うまく付き合っていくこと以外に。完璧に白黒をつける、そんな妄想的なことを実行してしまえばあの中華屋は潰れるだろうし、人間もまた潰れてしまう。

 

発酵した彼女の匂い

発酵するまで気づかなかった気配

知らない気配、未知の気配

それもすべて、彼女の匂い

それはもはや彼女でない彼女

暫定的彼女

きっと名前の下で分裂するきみ

総じることなく

一にもならず

ましてや消化されず

発酵するきみの穂は

風に揺られて

花粉を飛ばす

 

これはいつぞやに書き留めた、彼女を想像の中に閉じ込めないように書いた詩だったはずだ。そして、続きを書きあぐねたものだった。ほんとうなんとも言えない!穂って花粉飛ばすのかよ。なんとも甘いライム。いろんな意味で。ここからぼくは人称と主体をぶち壊し、任意の主体を設定し、主導権争いの物語を経て、詩と有限性について考え、または分岐し、未知なるもの、忘却されたものの逆襲を描き(未完)、そして、ミハルアイヴァスの影響の下、隙間から隙間の移行へ試み、旅を続け、家庭の誘惑に駆られながら。いまはとかく人間の尊厳について考えている。生き物の、奴隷じみた権利ではなく、尊厳を。あくまで先験的にしないように

詩、有限性への憎しみ、輪郭を伴って

どうしようもない、やるせのないもの、それだけが詩を生むのではないか。受けとめきれぬものを有限な身体で受けとめ、失語し、それでも生みだされる言葉が詩なのではないか。やるせのなさを憎しみ、憎しみきれぬ憎しみを我に抱き、寄る辺を跳ねのけ、語ろうとするわたし。わたしが語りだすとき、わたしはもはやわたしではない。わたしに潜む数々の憎しみがわたしに孔を穿ち、一斉に語りだす。憎しみの氾濫、わたしは辛うじて、わたしという意識を保ったまま、狂気ではなく正気で滲みだした染みを言葉へと変換させていく。それでいてわたしとは一体なにか。歪曲するものである、そして、任意の統率者、有限性そのもである。わたしは歪曲を促す有限性を憎み、統率者であることを憎み、わたしの有限性を憎むものである。わたしはわたしが消え去ることを望む、そして有限性が爆発することを望む。しかし、有限性が失われた場所で、わたしが消滅した場所で、詩が生まれることなどありえるか。否、それは夢である。詩は有限性の証として、有限性を憎むものとして、生み出される。そして、それは決して生まれるのではなく、生み出されるものなのだ。他者の世界に対する有限性の臨界地点で。他者と決して織り混ざらぬ、瓶のように冷ややかな己の壁を他者の絶対的に不可侵な冷ややかな壁に、でこを寄せるように。わたしは今日、石牟礼さんの悶絶を、受け止めきられぬ悶絶を受け取り、言葉を失った。そして、