師走に本を売る

年末年始は豪勢に過ごしたかったのだが、なんせ金がない。月末まで八千円しか持ち合わせがない。ああ、ジーザスクライスト俺の経済クライスト にはならないようにプランを練っている。

朝飯108円

昼飯216円

夜飯324円

タバコ代 250円1日に半箱

予算8000円。約2700円赤字になる。

ゲームオーバーだ。これ以上、生活費を切り盛りすることはできない。だから予算を増やすしかない。

本を売ろう。フーコーもバルトも売ろう。クレメンテ以外の画集は売っちまおう。シーレもマグリットもダダの画集もすべて売ってしまえ。読んでない、これから先も読まないだろう本は売ってしまえばいい。売れない本もたくさんあるが、失ってもいい本はたくさんある。

すれ違いそうですれ違わなかった本たちよ!ハレルヤ!

カートコバーン

ぶりったニコちゃんを平気な顔で着てる奴が嫌いである。なぜだろう。知らないバンドのTシャツを着てても別に構わないし、メタリカのTシャツをメタリカというブランドと勘違いしてる人がいるのも楽しげでいい。

でも、ぶりったニコちゃん着てる人だけは個人的にめちゃくちゃ嫌いなのである。ほんとうに個人的な問題である。

今や、ぶりったニコちゃん自体に反骨の要素はない。歴史を紐解けば、ニコニコスマイルのニコちゃんにマリファナかヘロインかを吸わせてヘロヘロにさせたという反骨の歴史はあるが、それをたてに今の消費や態度についてとやかく言いたいわけではない。

あのTシャツが普遍性をまさにスマイリーのように獲得したこと、反骨の要素だけ刳り抜かれ消費されていること、それがただただ腹立たしく感じる。ほんとうに個人的な問題だ。

カートが商業的に利用されてるとかをたてにして何か言うつもりもない。カート自身も多少なりとそれを望み、しかしながら、その欲望と身体のバランスを保てなかった。

カートは化け物みたいな集団と闘っていたのだ。もちろん、その集団にはカートもいる。ぼくはその集団がとても嫌いだ。終始、闘う以外に道はないと考えている。

話を戻す。結果的にぶりったスマイリーは惨敗した。化け物たちに絡めとられ骨抜きにされた。でも、ニルヴァーナという言葉がトップに掲げてあるから、もしかするとだれかはユーチューブで再生するかもしれない。しかし、そんなケチな可能性なんて塵となれと願う自分もいる

嘲笑の構造

ちゃお!二連休入りました。初めて就職しました。ぼくもついに社会人と呼ばれる類なんでしょうか。というか日本に住んでる以上、何らかの社会の成員であるわけだから、みんな社会人だと思いますが、就職してない奴は社会人じゃないと認めてくれない社会人もいる。

pride of 社会人。社会人のプライド。我々は納税していますよという謎のシグナル。年金納めてますよ系。死ね。就職していないのは甘えとか云々言う人いてますけど、おまえが一番社会に甘えてる。常識に甘えてる。俺もしんどいねんから楽してる(してそうな)奴、みんな死ね死ね論法まじで死ね。

そんな奴らが語る思考やら思想やらが大他者的な社会への依存を証明してる。社会のなかでしか循環しないサイクルに組み込まれてる。

おまえがシュプきてもダサい。プラダ着ててもダサい。なぜか、そのブランド自体の価値が社会的に下がればおまえらはそれを着ない。給料を金に換金して首から下げとけ、かいとけマス。Tシャツにハッシュタグつけとけカス

流行はただのモデルチェンジで消費を促す広告。それを身に纏うおまえらの倫理とか道徳とか上部だけすり替えたようなきもい戦法まじでイル。ずーっと同じ構造と決まってる。記号が置換されるだけのつまらないギャグ。

キックボードで通勤してるの見て笑ってるやつみんな死ねとか思いながら漕ぐおれの朝のルーティン。キックボードが一番効率的経済的二倍濃縮の有酸素運動。自転車が駐輪代とられるイカれた時代に、ポータブルな板って最高やしスケボーより安全やし良いとこ二倍増し。

どうせ流行ったら誰も笑わなくなる。笑われるのは構わない。流行ったら笑われなくなるというのが気持ち悪くて仕方ないし、笑ってた奴が当たり前の顔して乗るのも気持ち悪い。そういった見え透いた嘲笑の構造が疎ましい。

だから。できる限り、そういう人間と関わらず彼らのフィールドのなかで邪魔な存在であろうと思う

誤配専門業者

バーナー作ってる奴と意識高い系ブロガー同士いちゃいちゃしてるネットやら生活の見えないカリスマブロガーとその残滓たちとかどうでもいいです。

わたしは交換日記がしたいし、知らない人と文通がしたいし、途中で誤配されたい。欲を言えば、誰かの書いたものに加筆して別の人間に送りたい。だれかが一生懸命描写してあるシーンを一言で撥ねつけたり、増殖させたりしたい。

化け物みたいな本を作りたい。ほんと、言葉って、マジックやから死んでる奴を生き返られせたり、地震起こせたり、出来るから楽しいよね。いきなり閃光のように斬りつけたりできるしね。

カブトガニ博物館

カブトガニ博物館は世界に一つだけしかない。それが日本にあることを、友よ、しっかりと誇りに思ってほしい。場所は広島県の端笠岡市である。

友よ、笠岡はカブトガニの生息地である。恐竜のいる時代から、ほとんど姿を変えない、生きた化石カブトガニが日本にいることを、友よ、彼らはヨーロッパにはいないのだ。ローラシア大陸が割れ、大西洋が誕生するとともに地球の反対側までやってきたこの未知なる生き物。

三葉虫を祖に持つ彼らはサソリやら蜘蛛の祖が海に別れを告げ上陸するのを見送りながら海に残った。彼らの仲間の大半は死に絶えた。まさに生きる化石。

それではカブトガニの写真を

f:id:soshisoshi:20171123020957j:plain

個別認識タグでさえ、かっこよく装ってしまうカブトガニ

f:id:soshisoshi:20171123021337j:plain

f:id:soshisoshi:20171123021416j:plain

f:id:soshisoshi:20171123021455j:plain

映像も剥製も模型も

青い血も精子

カブトガニ

視線の権利

デリダの著作に『視線の権利』なるものがある。読んでる途中で狂った。あんな怖いものをよく書いたなと思った。怖さのなかに法悦のようなものを感じつつ、古い記憶ながら二度と読みたくないと感じたのを思いだす。

視線がわたしを捉えるとき、知り得もしない方法でわたしは何かへ変形させられる。わたしもまた視線を他人に投げ、他人を捕まえる。視線は暴力だ。視線はわたしを不自然にする。わたしを硬くする。恥辱で動けず、自由を奪われる。他人の目を浴びる、この不快さ、この恐ろしさ。

視線は原初の暴力として我々に設置される。見ること=捕獲といっても過言ではない。しかしながら、いくら見たところで何をも捕獲できない。わからなさのあまり息が詰まる。考えただけで吐き気がする。見ることも見つめることも!他人の存在が過剰すぎる。理解するにはあまりにも過剰である。

存在すること自体が過剰である者が放つ視線を浴びること、このどうしようない、どうしようもないどうしようもない吐き気。わたしは隠れたいこのどうしようもない、このひらがなの疎ましさ、漢字の硬さ、このすべてを、いや、この。手の動き、親指の気持ち悪さ、あーわたしが放つ言葉、わたしという仮の一人称さえ、眼に映るすべてのすべて、どうしようもない!

なんて自分の放つ日本語は汚いのだろう。バランスが悪いのだろう。漢字とひらがな、語呂、ニュアンス、接続詞

内定

内定 確定 勤務地各停 祝いに食いたいカルビ定食 祝い?呪い? 本音で言いたい わからない まあいいや のろい チル には飽きた。

むかしなら パラパラ コロコロ 読んで 時間をイルにキル。いまは ゴロゴロ 減ってく残高 をタッタカ 待ったなし で完食 で就職。

28日まで休日 自由 I 埋める口実 乱立 びびらすカス 咲きだす蓮 ここどこ常世 へ行くにはまだ早え ちらつく蝿 殺すガス より かれとともにまず飛び回る うんこの上へ うぇ 吐き気催す buck off 反抗

いかった肩ふり回す よりも ことば交わす ガンジーズに 肩叩き you're fired まばたきしてる間に ヨガフレイム 判別つかんやつ読んでるムー 今日も何処かの教祖が オイソ ボイソサイソ 広がる裾野 懐に飛び込む はるばるきたけん

悪党におやすみをいいな

いいね!5件