嘲笑の構造

ちゃお!二連休入りました。初めて就職しました。ぼくもついに社会人と呼ばれる類なんでしょうか。というか日本に住んでる以上、何らかの社会の成員であるわけだから、みんな社会人だと思いますが、就職してない奴は社会人じゃないと認めてくれない社会人もいる。

pride of 社会人。社会人のプライド。我々は納税していますよという謎のシグナル。年金納めてますよ系。死ね。就職していないのは甘えとか云々言う人いてますけど、おまえが一番社会に甘えてる。常識に甘えてる。俺もしんどいねんから楽してる(してそうな)奴、みんな死ね死ね論法まじで死ね。

そんな奴らが語る思考やら思想やらが大他者的な社会への依存を証明してる。社会のなかでしか循環しないサイクルに組み込まれてる。

おまえがシュプきてもダサい。プラダ着ててもダサい。なぜか、そのブランド自体の価値が社会的に下がればおまえらはそれを着ない。給料を金に換金して首から下げとけ、かいとけマス。Tシャツにハッシュタグつけとけカス

流行はただのモデルチェンジで消費を促す広告。それを身に纏うおまえらの倫理とか道徳とか上部だけすり替えたようなきもい戦法まじでイル。ずーっと同じ構造と決まってる。記号が置換されるだけのつまらないギャグ。

キックボードで通勤してるの見て笑ってるやつみんな死ねとか思いながら漕ぐおれの朝のルーティン。キックボードが一番効率的経済的二倍濃縮の有酸素運動。自転車が駐輪代とられるイカれた時代に、ポータブルな板って最高やしスケボーより安全やし良いとこ二倍増し。

どうせ流行ったら誰も笑わなくなる。笑われるのは構わない。流行ったら笑われなくなるというのが気持ち悪くて仕方ないし、笑ってた奴が当たり前の顔して乗るのも気持ち悪い。そういった見え透いた嘲笑の構造が疎ましい。

だから。できる限り、そういう人間と関わらず彼らのフィールドのなかで邪魔な存在であろうと思う

誤配専門業者

バーナー作ってる奴と意識高い系ブロガー同士いちゃいちゃしてるネットやら生活の見えないカリスマブロガーとその残滓たちとかどうでもいいです。

わたしは交換日記がしたいし、知らない人と文通がしたいし、途中で誤配されたい。欲を言えば、誰かの書いたものに加筆して別の人間に送りたい。だれかが一生懸命描写してあるシーンを一言で撥ねつけたり、増殖させたりしたい。

化け物みたいな本を作りたい。ほんと、言葉って、マジックやから死んでる奴を生き返られせたり、地震起こせたり、出来るから楽しいよね。いきなり閃光のように斬りつけたりできるしね。

カブトガニ博物館

カブトガニ博物館は世界に一つだけしかない。それが日本にあることを、友よ、しっかりと誇りに思ってほしい。場所は広島県の端笠岡市である。

友よ、笠岡はカブトガニの生息地である。恐竜のいる時代から、ほとんど姿を変えない、生きた化石カブトガニが日本にいることを、友よ、彼らはヨーロッパにはいないのだ。ローラシア大陸が割れ、大西洋が誕生するとともに地球の反対側までやってきたこの未知なる生き物。

三葉虫を祖に持つ彼らはサソリやら蜘蛛の祖が海に別れを告げ上陸するのを見送りながら海に残った。彼らの仲間の大半は死に絶えた。まさに生きる化石。

それではカブトガニの写真を

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個別認識タグでさえ、かっこよく装ってしまうカブトガニ

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映像も剥製も模型も

青い血も精子

カブトガニ

視線の権利

デリダの著作に『視線の権利』なるものがある。読んでる途中で狂った。あんな怖いものをよく書いたなと思った。怖さのなかに法悦のようなものを感じつつ、古い記憶ながら二度と読みたくないと感じたのを思いだす。

視線がわたしを捉えるとき、知り得もしない方法でわたしは何かへ変形させられる。わたしもまた視線を他人に投げ、他人を捕まえる。視線は暴力だ。視線はわたしを不自然にする。わたしを硬くする。恥辱で動けず、自由を奪われる。他人の目を浴びる、この不快さ、この恐ろしさ。

視線は原初の暴力として我々に設置される。見ること=捕獲といっても過言ではない。しかしながら、いくら見たところで何をも捕獲できない。わからなさのあまり息が詰まる。考えただけで吐き気がする。見ることも見つめることも!他人の存在が過剰すぎる。理解するにはあまりにも過剰である。

存在すること自体が過剰である者が放つ視線を浴びること、このどうしようない、どうしようもないどうしようもない吐き気。わたしは隠れたいこのどうしようもない、このひらがなの疎ましさ、漢字の硬さ、このすべてを、いや、この。手の動き、親指の気持ち悪さ、あーわたしが放つ言葉、わたしという仮の一人称さえ、眼に映るすべてのすべて、どうしようもない!

なんて自分の放つ日本語は汚いのだろう。バランスが悪いのだろう。漢字とひらがな、語呂、ニュアンス、接続詞

内定

内定 確定 勤務地各停 祝いに食いたいカルビ定食 祝い?呪い? 本音で言いたい わからない まあいいや のろい チル には飽きた。

むかしなら パラパラ コロコロ 読んで 時間をイルにキル。いまは ゴロゴロ 減ってく残高 をタッタカ 待ったなし で完食 で就職。

28日まで休日 自由 I 埋める口実 乱立 びびらすカス 咲きだす蓮 ここどこ常世 へ行くにはまだ早え ちらつく蝿 殺すガス より かれとともにまず飛び回る うんこの上へ うぇ 吐き気催す buck off 反抗

いかった肩ふり回す よりも ことば交わす ガンジーズに 肩叩き you're fired まばたきしてる間に ヨガフレイム 判別つかんやつ読んでるムー 今日も何処かの教祖が オイソ ボイソサイソ 広がる裾野 懐に飛び込む はるばるきたけん

悪党におやすみをいいな

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可能態

作者の意図とは裏腹にそう読むことも可能であることを可能態と呼んでいる。たとえば、ジブリの都市伝説なんかも作品の可能態だと考えている。

作品は作者のものではないし、そうでもある。作品は公である。公を占領することはできないが、作者は王である。作品は空座の王によって生み出されるが、王はその可能態を否定することはできない。なぜか、人間はべつの人間の視点を踏みにじれないからだ。批評とは作品の可能態のなかに眠るひとつの正しさを導くものである。人間はこの批評のもと作品を生み、作品にべつの可能態を孕ませる。作品が生まれたとき、それを知らされたとき、それら二つは平行になる。公に登録される。

公衆は一つの化け物である。そこから解離する様を人間とよび、公衆は人間の可能態である。

仮の答えを提出しつづける

ある本の影響で読書の方法をかえた。

前のスタイルは憑依型で、他人を自分に憑依させていた。言語化不可能の域にまで他人を自らに憑依させ、言語を窒息させるスタイル。感想を聞かれると、痴呆症者の振る舞いのように答えることしかできない。やばめのスタイル。

わたしはもっぱら憑依型で影響をかなり受けやすい。それはいいことだが、限界のあるこの身では受け止めきれない。あらゆるものが無限に広がりすぎるからだ。

で、この方法では生きられないことにやっと気づき、情報を切断していくスタイルに切り替えようとしている。とはいっても、切断し過ぎず、情報を切っていく。潜在性に潜りはするが、現働化させ潜在性を広げ過ぎない。今までは自分の有限性(身体)を無視し過ぎていたので、ことばを失い、過剰なほどあらゆる本と接続していたので何が何だかわからなくなっていた。それを気づかせ、実践へ導いてくれた本が

千葉雅也『動きすぎてはいけない』だ。

この本を何度も読みすすめるにつれて、これはわたしのために書かれた本だと感じた。本書を読んでいると、スピノザライプニッツ、メイヤスー、マラブーを一度読まなくてはいけないような気がする。しかしながら、わたしが今読むべき本はこの一冊だけだ。

たとえば、それらの本を仮に買ったとする。求めていることは切断と接続の過剰さを調節することであり、それをいかに節約するかということ。いわば、仮の答えを提出し続けること。

それらを探すためにわたしが彼らの本をたらい回しに読めば、本書の意図ともわたしの意図とも逆行することになる。シニフィアンの連鎖のような状態にまた足を踏み入れることになるのだ。何度も読んでそれに気がついた。今はこの一冊を読む。買って半年以上経つ。この書物をしっかり使いたいと思う。

はじめの実践の場としてツイッターを短歌に切り替えた。これはいい。文字数という有限性のなかでツイートする。無限に膨らむ潜在性を断ちながら、ことばをはめていく快感。ときにはみ出すけど、ただの字余りだ。

切断し過ぎるジャニーズから接続し過ぎるSNSへ移行した香取慎吾もこの本を是非読んでいただきたい。きっと参考になる。

クラブミュージックに疎外感を感じる人、イエスかノーかという命令に嫌気がさしてる人にも是非読んでいただきたい。