師走の詩

ある世界の情景

今夜、毛皮を纏えぬ者が

毛皮を纏い

歌えぬ声で 聖歌を歌う

最も愚かな 者が 愚かな唄を

夕べ、今朝もがれた腕が

独り泣き始める

身体の垢を詰めながら

蕾をひらく そんな夕べ

侍る 苔を擦り落とす

ヤカラの唄が 海へ ながれる

黄昏 プールの冷たさ 凍て

水面に 串ざす カラスの嘴

鳩 来たる 公園へ 獣を放つ

われはかみなり

我は神なり われは雷。あまりにも恣意的な規則により、2018年を迎えさせられる羽目となった。神社へ行けば御神籤をひく。賽銭やらを入れることはないが、お邪魔しますとは言う。森へ行っても、人の家へ行っても猫の住処へ行ってもお邪魔しますとぼくは言う。地霊や地の利を信じている。だれかの住処へ行くときは部外者であることを心得ている。

初詣にはアホみたいにひとが集まる。恣意的な行事だ。御神籤で神社(場所)がどれほど、ぼくを好んでいるか確認する。一種の対話である。恣意的だ。

キキちゃんを連れて地元の神社へ行った。御神籤を引いた。『願いなさい、神を拝みなさい。中略。清き願い以外は神に届かない』なるほど。神は偉そうになった。ここの神と相性が悪くなったのだろう。大吉とは思えない内容で思わず吹いてしまった。

御神籤はどうやって入荷するのだろうか。ロット数があるのだろうか。いつ発注するのだろうか、とか考えていた。流通のプロセスを考えたところで神(縁)を阻害するとは、ぼくは思えない。

偶然ではあるがそれにあたり、そこに文字が書かれているこのプロセスが神を壊すならばそんなもの壊れてしまえば良いのだ。偶像崇拝よりたちが悪いじゃないか。超越的なものを神とは呼ばない。さらに言えば、超越的なものは存在しない。超越的なように見えるだけではないのか。

ぼくは信じると言う言葉があまり好きではない。信じるというよりも認識しているという方がしっくりくる。ぼくは神を認識している。地霊である。縁である。

夢十夜 第一夜

あるグループがいた(中学生のときのグループである)当たり前のように車を乗り回し、グループのボスがグループのメンバーを誤って轢いてしまった。そこからこの物語は始まる。

彼は死んだ。ぼくがそれを知ったのは修学旅行のときだった。彼が死んで数日経ち、警察もよくよく立ち上がりそうになっていたのだろう。メンバーは事情聴取にそなえ、どのような態度をとるか確認しあっていた。

ぼくは彼が轢かれたとき、現場に居合わせていなかったにも関わらず、事件について知っていて、彼がこの世にいないことを知っていた。というのも、わたしは夢の冒頭にドライバー、つまりはボスに憑依していたからだ。暗い駐輪場を車で乗り上げ、ヘッドライトが死ぬ前の友人を捕らえ、友人を轢くまでわたしは克明にそれを目撃していた。

いま、わたしはぼくの意識のなかに潜んでいた。だから、彼らの口から語られることを避けるために、彼ら自体を避けていた。

もしも直接的に事件について耳にすれば、ぼくはは『知りません』という嘘をつくか、彼らを裏切るかの二択に板挟みになる。そんな羽目には陥りたくなかった。しかしながら、ヒソヒソ噺しが自然に耳へ流れてくる。バスの座席は事件が起こる前に決めたものであるから、当然わたしはグループの席に着いていたのだった。

修学旅行が終わり、金のないぼくはグループの一人と仕事の面接へ行くことになる。ぼくは遅刻してしまい、遅れて面接へ向かうことになる。

着くと友人が面接をしている最中だった。友人の後ろには面接に来たスーツ姿の人間の集団がおり、そのなかのショートカットの女がぼくにウィンクを送ってきた。小柄で艶のある髪をおかっぱのように切り揃えた女性と少女が同居するような女性。わたしはお尻を触っても怒られないだろうなと考えていた。

ここで、わたしの意識は面接中の友人へと切り替わる。友人は本を開き、朗読するよう促されている。面接官は二人いた。友人の前に座っている髭面の男と後ろに立っている女。二人とも首もとが詰まったシャツをきちんとまとい、黒いマントに黒いパンツ、黒いヒールブーツを履いていた。彼らが身体を動かせばマットサテンの真っ赤な裏地がマジシャンのようにひらめいた。

『わたしは誓って、社会的に害悪な行為、もしくは社会的な組織に糾弾されるような行いを取った試しはありません』

と本には太字で書いてあった。友人はここを朗読するよう言われていた。友人は読み上げた。『わたしは誓って、社会的に害悪な行為、もしくは社会的な組織に糾弾されるような…』に差し掛かったとき、友人の右手、親指の付け根、ふっくらとした白い丘がヴィクンと波打った。青白い部屋が赤のライトに切り替わり、短くも決定的な判定音が響いた。

面接官たちは顔を見合わせニヤついた。広角が片方だけ歪にあがる、意地悪な笑みは友人とそのなかにいるわたし、ぼくをヒヤヒヤと震え上がらせた。

『もう一説、次はここを読んでください』と面接官の男は本を捲り上げ、ある一言を指した。友人は朗読し、再び同じ轍を踏んだ。予め親指を波打ちながら朗読する作戦に挑んだが、無駄だった。意識的な震えと無意識的な震えは貧乏ゆすりと痙攣くらい異なるものだった。また面接官たちは顔を見合わせニヤつき始めた。そして、面接官の男は手をパチパチと叩き、『これにて面接は終了いたします。なお、遅刻してきた方に関しては当社の方針におきまして、面接することができません。後日、面接にお越しください』

ぼくは心を撫でた。

ぼくはグループのボスとドライブをしていた。ボスとぼくを含め、四人いた。警察から逃げている様子だった。ボスが独りでに噺している。夜だった。灯の乏しい田舎のハイウェイを走っている。事件の犯人は身割れした。その経緯についてボスは噺していた。

『○○の死体を処理しようと思って、消防局に電話かけてんやん。色んな消防局に電話してんけど、誰も教えてくれへんかった。防腐処理のやり方だけ教えくれるところもあったけど。たぶん、それが原因でバレたんやろうなあ。電話かけまくったんミスやわ。二軒か三軒なら普通のことやし気にならんやろうけど、さすがにな。で、結局は死体処理できてんけどな』

『一人で処理したん?』

『防腐処理のやりかた聞いてたから、やったった!三ヶ月くらいかかったけど』

ぼくはトランクのところに座っていた。目の前の板に円状に切られたイカの炒め物のようなチーズが一つあり、その付近にケチャップがあった。ぼくはそれをケチャップにつけて食った。車の横を自転車で走る国民にも、釣りをしている国民にもあげた。

チーズは喉を過ぎると鼻の粘膜に付着した。ぼくは必死に鼻からチーズを掻きだした。後ろを振り返ると鼻にチーズが詰まった連中がバタバタ倒れていた。わらわらと警察、救急車が集まってきた。ぼくらは走った。海へ目掛けて走った。テトラポットをボスは右へ行き、ぼくと他の二人は左へ行き、テトラポットに身を潜めた。ぼくらは追い詰められた。目の淵でボスが囚われたのを目撃した。ぼくは友人たちに海へ飛び込むよう促した。

ぼくと友人は泳いだ。視界はぐんぐんと彩り、ぐんぐんと景色が変わった。向こう岸に日本が見える。わたしたちは太平洋を横断しているのだ。わたしたちはさらにスピードを上げ、日本列島へ上陸した。

その街は未来的でもあり、古風でもあった。超未来的な建物があるかと思えば、バラック小屋、古い木造、土埃の舞う道がそれらの間を覆っていた。すれ違う、日本人はみな、野良着を身につけていた。異国だった。ぼくは性別が変わり、母親になっていた。友人は幼い子供になっていた。ぼくは子供に『コンニチワ』の発音を教えながら、裏路地を抜け、小さなドラム缶が椅子のように並べられた誰かの秘密基地を発見すると、胸を撫でた。これからどのように生きていこうか、と考え始めるとともに、心臓は高鳴り、ある種の興奮を胸に抱いていた。

師走に本を売る

年末年始は豪勢に過ごしたかったのだが、なんせ金がない。月末まで八千円しか持ち合わせがない。ああ、ジーザスクライスト俺の経済クライスト にはならないようにプランを練っている。

朝飯108円

昼飯216円

夜飯324円

タバコ代 250円1日に半箱

予算8000円。約2700円赤字になる。

ゲームオーバーだ。これ以上、生活費を切り盛りすることはできない。だから予算を増やすしかない。

本を売ろう。フーコーもバルトも売ろう。クレメンテ以外の画集は売っちまおう。シーレもマグリットもダダの画集もすべて売ってしまえ。読んでない、これから先も読まないだろう本は売ってしまえばいい。売れない本もたくさんあるが、失ってもいい本はたくさんある。

すれ違いそうですれ違わなかった本たちよ!ハレルヤ!

カートコバーン

ぶりったニコちゃんを平気な顔で着てる奴が嫌いである。なぜだろう。知らないバンドのTシャツを着てても別に構わないし、メタリカのTシャツをメタリカというブランドと勘違いしてる人がいるのも楽しげでいい。

でも、ぶりったニコちゃん着てる人だけは個人的にめちゃくちゃ嫌いなのである。ほんとうに個人的な問題である。

今や、ぶりったニコちゃん自体に反骨の要素はない。歴史を紐解けば、ニコニコスマイルのニコちゃんにマリファナかヘロインかを吸わせてヘロヘロにさせたという反骨の歴史はあるが、それをたてに今の消費や態度についてとやかく言いたいわけではない。

あのTシャツが普遍性をまさにスマイリーのように獲得したこと、反骨の要素だけ刳り抜かれ消費されていること、それがただただ腹立たしく感じる。ほんとうに個人的な問題だ。

カートが商業的に利用されてるとかをたてにして何か言うつもりもない。カート自身も多少なりとそれを望み、しかしながら、その欲望と身体のバランスを保てなかった。

カートは化け物みたいな集団と闘っていたのだ。もちろん、その集団にはカートもいる。ぼくはその集団がとても嫌いだ。終始、闘う以外に道はないと考えている。

話を戻す。結果的にぶりったスマイリーは惨敗した。化け物たちに絡めとられ骨抜きにされた。でも、ニルヴァーナという言葉がトップに掲げてあるから、もしかするとだれかはユーチューブで再生するかもしれない。しかし、そんなケチな可能性なんて塵となれと願う自分もいる

嘲笑の構造

ちゃお!二連休入りました。初めて就職しました。ぼくもついに社会人と呼ばれる類なんでしょうか。というか日本に住んでる以上、何らかの社会の成員であるわけだから、みんな社会人だと思いますが、就職してない奴は社会人じゃないと認めてくれない社会人もいる。

pride of 社会人。社会人のプライド。我々は納税していますよという謎のシグナル。年金納めてますよ系。死ね。就職していないのは甘えとか云々言う人いてますけど、おまえが一番社会に甘えてる。常識に甘えてる。俺もしんどいねんから楽してる(してそうな)奴、みんな死ね死ね論法まじで死ね。

そんな奴らが語る思考やら思想やらが大他者的な社会への依存を証明してる。社会のなかでしか循環しないサイクルに組み込まれてる。

おまえがシュプきてもダサい。プラダ着ててもダサい。なぜか、そのブランド自体の価値が社会的に下がればおまえらはそれを着ない。給料を金に換金して首から下げとけ、かいとけマス。Tシャツにハッシュタグつけとけカス

流行はただのモデルチェンジで消費を促す広告。それを身に纏うおまえらの倫理とか道徳とか上部だけすり替えたようなきもい戦法まじでイル。ずーっと同じ構造と決まってる。記号が置換されるだけのつまらないギャグ。

キックボードで通勤してるの見て笑ってるやつみんな死ねとか思いながら漕ぐおれの朝のルーティン。キックボードが一番効率的経済的二倍濃縮の有酸素運動。自転車が駐輪代とられるイカれた時代に、ポータブルな板って最高やしスケボーより安全やし良いとこ二倍増し。

どうせ流行ったら誰も笑わなくなる。笑われるのは構わない。流行ったら笑われなくなるというのが気持ち悪くて仕方ないし、笑ってた奴が当たり前の顔して乗るのも気持ち悪い。そういった見え透いた嘲笑の構造が疎ましい。

だから。できる限り、そういう人間と関わらず彼らのフィールドのなかで邪魔な存在であろうと思う

誤配専門業者

バーナー作ってる奴と意識高い系ブロガー同士いちゃいちゃしてるネットやら生活の見えないカリスマブロガーとその残滓たちとかどうでもいいです。

わたしは交換日記がしたいし、知らない人と文通がしたいし、途中で誤配されたい。欲を言えば、誰かの書いたものに加筆して別の人間に送りたい。だれかが一生懸命描写してあるシーンを一言で撥ねつけたり、増殖させたりしたい。

化け物みたいな本を作りたい。ほんと、言葉って、マジックやから死んでる奴を生き返られせたり、地震起こせたり、出来るから楽しいよね。いきなり閃光のように斬りつけたりできるしね。