改めまして時計じかけのオレンジ

映画は一度観れば、二度と観ないことがほとんどだろう。ロードショーで何度もやるような映画ならともかく、自発的に何度も観るような映画はそうそうない。

時計じかけのオレンジ』ぼくにとってはこの映画がそれにあたる。何度観たかは憶えていないが、かなり観た。この映画の評論はアホみたいなものばかりで、すべて鋳型でつくった大量生産型のアンチと称賛ばかりだった。たしかに暴力の描写はウルトラバイオレンスでスタイリッシュだ。主人公のファッション、映像の斬新さ、BGMの使い方だけでも革新的でえげつない。だが、この映画の射程はそれだけに止まらないのは観れば分かる。時計じかけのオレンジを単純なファッションの小道具にしたくはなかったし、「ぼくたちは時計じかけのオレンジから本当にかっこいい暴力を学んだ」みたいなことを平気な顔して呟いている文化人みたいな、お前の本業なんやねんみたいな中年がほざいているのが耳障りで仕方なかった。

一体、この映画は何なのか?という問いを提示したとき、拒否反応を示す者が多々いる。映画は芸術だぜ。ましてやキューブリックが監督やぞ。しょうもないコメント寄せる方が烏滸がましいのではないか。俺たちはドゥルーグスでグルーピーですと言ってるようなもんだ。話が逸れそうなので戻る。

ぼくはこの映画をリアルな暴力がイマジネーションに変容する物語だと考えていた。ウルトラバイオレンスが真にラディカルになるのはイマジネーション、創造においてだと考えていた時期でもあったからそう捉えていたのかもしれない。ただそれだけでは、腹落ちしていないものがあって、いつかメモを取りながら分析したいと思っていた。

で、それから数年経って遂に実践した。あの頃、ぼくが捉えていた物語とはまるで違った。

確かに時計じかけは暴力の過程を描いている。だが、その過程の背後に潜むのは国家である。悪を国家が抑圧し、矯正し(反道徳=反国家的な欲望ではなく行為を)、刑罰としての音楽(ヴェートーベン)によって主人公を精神的な自殺へ追い込み、国家が再び擦り寄る。

あの頃は、リアルな暴力、国家の抑圧、自殺、変身というカテゴリーで起承転結を考えていた。自殺までに至るプロセスを因果応報的だとして、結びを変身、暴力をイマジネーションへ転換させる物語だと考えたわけだ。

だが、慎重に見直すにつれてそれが起の部分における暴力が二股に分かれているのが分かった。それが①ウルトラバイオレンスと②君主的な暴力である。

①ウルトラバイオレンスとはひたすら快楽だけを求める暴力である。主人公にはそもそもイマジネーションがあった。それはリアルな暴力と同次元にあり、リアルとイメージの分別がつかないだけに過ぎなかった。(ただヴェートーベンの音楽は反道徳的ではなく悦びの余剰としてある)

ここで、見落としてはいけないのが、そのウルトラバイオレンス自体が反道徳的な行為、イメージに対する欲望だった。この点をまず、初めの解釈では見落としている。反道徳的である段階で国家の存在がチラつく。道徳=国家だ。ルドヴィコ療法は紛れもなく、国家の策略で反道徳に対する欲望の滅殺ではなく、あくまでそこから発する行為を禁じる、過ぎた矯正である。

②主人公のアレックスが余剰なヴェートーベンの音楽の悦びを仲間と共有できなかった際に、仲間と揉め、裏切られる。その際にアレックスが彼らを従えさせるために用いた暴力は、悦びをひたすは追従する暴力とは異なる、君主的な暴力だった。

ドゥルーグたちと行った二度目のお宅訪問は、アレックス一人が享楽に走り、他のものは家の前に置き去りだった。なおかつ、アレックスは訪問先の家に置いてある大きな男根を抱えて、老女をいたぶり、勢いで口に打ち込んでしまう。この男根というのが君主的な暴力の象徴であることは言うまでもない。その象徴をヴァギナではなく、口に打ち込むのだ。えげつなくないか?このメタファーのオンパレード。口は勿論、性行為で使用されるが、あくまで男根の快楽の最たるものであり、手淫のようなものである。それにアレックスの部屋でヴァギナと蛇が対面しているシーンとの対比も抜群に効いている。(蛇は余剰としてのベートーベンとウルトラバイオレンスの混合体だと考える)

一度目のお宅訪問との差異を考えれば、二番目の異常さが際立つ。暴力のベクトルが完全に変化していることが分かる。

時計じかけのオレンジを4時間かけて観た。映画の尺が二時間くらいだから、倍の時間をかけて観た。本当にね、この映画は、拾えば拾うほど至るところに色んな仕掛けがあっておもしろい。

仕掛けの名手と言えば、現代はクリストファーノーランって言われてるけど、あれは何か角角しい。仕掛けって分かるように作ってる。ノーランもノーランでおもろいねんけど、キューブリックは異質です。

最後に何回も見てしまう映画の紹介、リンチのワイルドアットハート、ブルーヴェルヴェット。これとはまた別の意味でよく観るのはフィンチャーファイトクラブ。で、映画の中で一番食らったのはホドロフスキーです。キューブリック観た後に、衝撃受けるって相当やばいっす。ホドロフスキーはリンチとは対極で、想像の雑草が茂りまくってます。いちいち形をきれいに整えたりしない。衝撃でイマジネーションの源泉を観ている感覚になります。