毒とともに

死ぬべき人だった。無生産的で、労働せず、缶を集めて金に換える。家賃も払わず、ブルーシートなんぞを公園に張って雨を凌ぎ、犬なんかも飼って、自転車を漕いでゴミ箱からゴミ箱へ渡る。

私は殺してもいいと思った。彼らが法律の外側にあるような気がして、如何なる非人道的な振る舞いを彼らに食らわせても罪にはなるまいと。労働しない者、食うべからず。テレビのニュースに挟まったホームレスの映像。「勉強せえへんかったら、こうなるど」と教えられた。ホームレスという言い方よりも、最も悪辣に乞食と呼ばれていた彼らを私は見下した。その反面、羨ましさがあった。仕事を介さずして、生活を営める力への、生命力への憧れ。そういった憧れを大人に知られないように胸に秘めつ、毒の言葉にやられて私はじわじわと毒に染まった。それが毒だとついに分からなくなったのは十三歳だった。

学校で習ったのは胡散くさい憐みだった。道徳の授業は憐みで満ちて、無生産的な者たちへの差別をやめよといった趣旨のもので、美談めいた、非常に気に障る文言、発してしまえば死にたくなるような恥ずかしい多様性のむず痒さを感じずにはいられなかった。感想文に己の足で立てず、人の助け無しに生きられぬ者は殺してしまえ。と、よく書いた。弱者を自称する者、弱者とされる者、何が何で弱者なのか分からず、生活を自足できるか否かで、私は生きて良い者、生きてはいけない者を隔てた。

分からないことへ白と黒の折り合いつける。グレーゾーンは見ない。生か死か。潔癖症のように私にこびりついた二項対立と一進法の呪いは、最終的には愛国思想と結びつき、私に流れる血を糾弾し、極みへと走り抜ける間際に、それとは相反して流れていた私の旋律が私の潔癖症へ漏れ出し、私の統合されえない身体は悲痛な声をあげながら、純潔な死から諦めの死へと歩みつつあった。

私のばらばらになった身体は異なる声をあらゆるところで鳴らせて、私の身体は世の中になった。矛盾が鳴り、それを消し去ろうとする者、留まろうとする者、が犇きあって死も生もない言葉と歴史の断片が渦を巻いて、仕舞いには口と肛門が一つの管になって、食事/排泄を行うエコロジーだけのために生きている人間のことを考えていた。それは自分の姿であるのだが。

口と肛門さえ働かせるだけの生物として人間を思ったとき、生きる理由を失ったが、理由を求めることが生きる動機になり、新しい病気、理由を求める病理とともに歩むこととなる。ここでプツンと記憶が途絶える。これが23歳までの私の負荷だ。

思えば、毒して生きてきたのだ。もっとマシな毒を飲んで、強い毒を飲んで強い毒を制して、そうする内に身体はバラバラになって好き勝手やるようになった。関心はより疎に、海に浮かぶ島のようにいい加減なものとなり、現実と夢を隔てる膜は揺れつつ、そこへ映る影に故郷なんぞや、香りを認めた。

自分はずっとそうだったような気がするし、そうでなかったような気がする。どこからも宙吊りとなって、時に足を下ろすような構えをして、夢想家のようなふりをして、そのようにして足をただ進めてきたような生き方なのかもしれない。でも、やっぱり私はずっと何かしらの病とともにあったのだという気がする。病を治さずにそれを認めて、認めることによって矛盾を引き受けて可能な形で生を営んでいる。私は完治しないだろう。無垢ではあり得なかったように。社会的な文脈に揉まれて。ただ私はこうも言えるのではないか。無垢な魂と共にあると。

『無垢は、知恵とともに住んでいるが、無知とは決して共生することがない。組織を備えていない無垢、それは不可能なことだ』

大江健三郎 新しい人よ眼ざめよ P37 怒りの大気に冷たい嬰児が立ち上がって冒頭より