虫唾が走るの

野を超え 山越え 海超え

南極あたりで右回り きみの声ー

虫唾が走るの〜 虫唾が走るわ〜

もう聞こえない 声すらない

嗄れてるのか ざわついているの

君の声〜 虫唾が走るわ〜 虫唾が走るの〜

聞こえないふりしても それはだれの声

風に巻かれて 木々に引っかかり

恨めしそうに泣くもんだから 雨が降るの

絹みたいな わたしたちは繭になるの

ずっと昔からそうしてるように

クルアンビンの曲を聴いていると、勝手に歌詞をつけていた。気づけば、一時間ほど経っていて、ああでも、このまま消すのは勿体ないなあと思い、歌い終わってから覚えてたこと、また思いついたことを書いた。そんなことを数ヶ月前にしたなあと思い出し、ノートで『虫唾が走るわ』と調べてみると、ビンゴ!やっぱり書いていたのだ。

そういや、数年前は風や車のエンジン音に歌詞をつけて歌っていた。そう言えば、その頃は自転車に乗っていると歌詞が出てくるような状態で、よくおれはいい歌を作るなあと感極まって泣いていたのである。最近は自転車に乗っていないので歌を作っていないのだろう。

自転車といえば、乗ってきたのか乗ってきていないのかよく覚えれなくて、乗ってきてないのに何時間も探したり、乗ってきたのに忘れてしまったり、大変だった。自転車は鍵をなくしてしまってから、乗らなくなってしまったのだが、どんな自転車だったのか全く覚えていないから、マンションの駐輪場にはあるはずなのだが、どれが自分の自転車が分からない。

自転車はいい。私のリズムは歩くよりも自転車である。中沢新一が「自転車とは亡霊の視点である」と書いてたのを見て、大変感銘を受けた。まさしく、ぼくの感覚もそうゆう風なのである。歩くのは遅すぎる。走っても車ほどスピードが出ないし、進まない、持久力がない。ダイナミズムに欠けている。景色も一変しない、徒労である。というか、思考の激しさと徒歩のスピードが噛み合わない。チャリは緩急がつけやすいし、嫌な人間がいれば一瞬で通り過ぎることができる。車と違って外だし、ルールがないからスピードも上げ放題の下げ放題。一方通行も無視できるし、脇道にも入りたい放題。あそこ、ちょっと寄りたいなあとなると、倍速で進むことができる。チャリはやり放題。

よく思いつきで、広島へ向かって走り出したりしたものだ。三日間チャリばっかり漕いで、泣きながら峠を超えて、飽きたらチャリを捨ててフェリーで帰ってくる。帰り道を考えると、くたびれる。絶対に引き返したくない。だから、帰り道に必要なエネルギーを考えることなく、走り抜ける。疲れたらチャリを捨てて、とんぼ返りする。弊害も別に大したものじゃない、もう山を超えたくないなあと思ったら止める。だいたい、尾道を越えて東広島か、今治くらいで納得する。もうしんどいから帰りまーすモードになる。

本当に思いつきで始める。朝起きて行こうとかではなく、自転車で二時間くらいふらついてると、突拍子もなく昼の三時くらいから急に行くぜとなるのだ。もうこうなると止められない。走るしかない。朝の6時か8時くらいに岡山市へ突入。で岡山へ突入してから、倉敷まで行くのにいつも昼が回っている。倉敷へ着くと寝る。そっからはもう尾道を目指して邁進し、バイパスに乗る。大変なんだよ、尾道へ行くの。尾道着いてからは、帰ろうかな帰らんとこうかな〜の応戦。

帰りは、新幹線とかフェリーとかでさくっと帰ってくる。三日間で二千円くらいしか使ってないから、行き道の料金節約できたなあとなってウハウハになる。

最近はやってなかったが、この経済的にもクソ安定してる状態でチャリで出かけたらきっと楽しいだろうな。さすがにヒッチハイクは人と喋るのがだるいからやりたくないけど。そういえば、最後にヒッチハイクしたのは恐山へ向かったときだったなあ。これも思いつきで、夢に恐山が出てきたから向かっただけ。旅というのはなんだかんだ、健康に重要である。