みどろ

2017-2018.4

女のむせびなく声が聞こえる。理由を訊くと、煙草のけむりのせいだ、とは女は答えた。ごめんね、と言って男は煙草をぐりぐりと灰皿に押しつけた。女は寝屋の角を一点見つめると、ゆっくりと言葉をほとぼらせた。きっと何も忘れていないの。きっと忘れてもいなかった。鼻はちゃんと憶えているのね、けむりのにおいを。わたしが忘れていただけ。そう、それは隠れていたの。もう女は泣いていなかった。男はまた煙草に火をつけた。パチパチと音を鳴らせながら、煙が山羊の角のように逆巻いた。いったいきみはなにを思い出そうとしているの。わからないわ、鼻の記憶だもの。目の記憶とはべつのリズムで、それはあまりにも遅すぎて、口にすればけむりのように消えていく。映像よりもさきに感情に直結しているみたいね。わたしのあたまにはある世界のことが浮かんでいるわ。でも、もうそれは鼻の記憶から遠くへ来てしまった。話すと、また別の方向に遠のくけど、いいわ、話してあげる。さっきのようにけむりを絶やさないで。けむりがないと、わたしのはなしはただの妄想、独り言になってしまう。たとえ、あなたがきいていたとしてもそうなるの。そうなったら、遠いとかそういう距離の問題じゃなくなるの。男は起きてから眠っていたことに気がついた。なぜならば夢の中でも彼女と会話していたからだ。男の意識はぼよよおおんとして、彼女の言葉を汲みなにかしらと掛け合わせていたのだろうか、その世界で彼女は彼女らしき者となり、鷹になり、犬になり、最後にはそれらの細胞、粒となって、石となって空から降った。石は男の頭を掠め、貫き、裂いた。男は意識を失ったがそれでも立っていた。痛覚はなかったが、音があった。それは夢の音でもあり現実の音でもあった。音は弦のように震え、夢と現実の境界を揺らし、二つの世界かろうじて繋ぎ止めた。

神があった。石があった。古代の生き物があった。それらはあった。生きていたのではなくあった。存在というよりもあった。あることに対して疑念がなかったからそれらはあった。だから、女が石になって、男の身をめためたにしても男は抵抗すらしなかった。感謝すらしなかった。攻撃だなんて思いもしなかった。愛だとも思わなかった。しまいには、男は肉片になって狐に食われた。だから起こされるまで、男は狐の腸にいて狐の子供たちの声を聞いていた。たぶんそれも女の声だった。いや、ちがうかった。わからない。起きた今、最中から乖離した今、嘘を言っているに違いない。と男は言った。もはや世界が終わりを迎えたいま、言葉は無限に広がった。男はわからない、わからない、とあたかもわからなさそうに言ったあと、わからないことがわからないのか、わからないことがわかるのか、わからないと仰向けのまま独り言のように言った。言葉を放つと、女は座った。世界が勝手に歩き出すのよ。男はそれからまたうとうとした。

森を見た。目玉を刳り貫かれた鹿を、がさこそと泡立つ茂みを見た。わたしは酩酊していたのだ。語りながらも祈っていたのだ。わたしと彼女はここにいて、あそこを見た。刳り貫かれた白い月を見た。眼下に統べる町をみた。町は眠っていた、子牛のように。蛸壺のような岡をわたしは目になって滑空した。そのとき、わたしは風になった。わたしのない髪がひるがえった。それは風がページをめくるときのように、ばさばさと音を立てた。風がわたしを読んだ。わたしは風であり、目だった。だからわたしは読んでもいたし、読まれてもいた。わたしはあいだにいて同時にそれらを行い、行われた。わたしには半分意識があり、なかったし、半分意識がなく、半分意識があった。風がページをめくる音、女の湿った声、あらゆるものがこちらの世界のやり方で像を結び始めた。そして、わたしの世界が明朗になるに従ってやがて、これらの関係性にうっすらヴェールがかけられた。わたしはいつの間にか沼に来ていた。

下顎が露呈した女の塑像が沼のほとりにある。顎はツンとがっていた。製作途中というよりも、既に出来上がっていたものを鋭利なもので切り落としたような印象を受ける。だから、この断面図を見る限り、顔は既にあるような気さえする。しかしながら、いかなる顔になるのか考えも及ばなかった。

むき出しの下顎からは豊かな歯並びが一望できた。片方の親知らずは抜けていた。虫歯が何点かあった。そのうちのひとつをいじくろうと手を伸ばしたとき、歯に巣食っていた黒い点が移動した。よく見ると触角のようなものやら足のようなものやらが見えた。黒点ははけだるそうに身体を伸ばして曇りの空へ羽ばたいた。あまりにも空が暗かったので飛び出してから間を待たずにみうしなってしまった。

塑像はみどろと呼ばれていた。緑の男いわく、どれだけ顔を作ろうとも、一日を待たずにみどろは下顎だけになってしまう。緑の男はいつかきたる顔について思案中だった。体毛が苔むすまで考えても一向に形にならないそうだ。実際は体毛というより、ほとんど毛皮と呼んでもいいくらいなもので男と苔は一つの生命を営んでいるように見えた。緑のけもの。男のことはそう呼んだほうがいいのかもしれない。けものの足元には持ち手まで暗く苔の茂ったパテが転がっていた。

緑のけものの身体には蟹たちが住み着いていた。蟹は群れで行動した。塊は生々しく蠢き、差し色にできるほど易しくない紅い甲羅の群れはけものの股のあいだに住処をつくっていた。蟹たちは緑に潜むスケルトンの小エビ取りに夢中になっていた。緑の男いわく、小エビたちは蟹たちが起きだす前の、月の薄れた夜にけものが捕った生き物らしく、今日はたまたまエビだが、昨日は鮒虫だったらしい。緑のけものの一日のルーティンはこれだけで、他の時間はみどろの顔について考えていた。

みどりのけものはやをら他の生き物たちをおびき寄せ、劇団を間歇的に営む。蟹たちが残した食い物が腐って、ある程度溜まってくると強烈な腐臭を発するようになる。するとその匂いにつられた大玉の蠅たちが羽の音を卑しく鳴らせて、一匹、二匹、三匹と集まり始めるのだ。するとどこからともなく土色をしたトノサマカエルが姿を現す。のっしりと重たい脚でみどりの毛皮に這いあがると、ぶんぶんと獲物に群がる蠅たちをあのよく伸びるピンクの舌でぱちん、ペロンと食ってしまう。カワセミが空から飛び現れるのは蛙たちが食事を終えて牛のように休んでいる頃になる。流星の流れるようにカワセミが空から落ちてくるときの美しさ。しかしながら、その美しさは一瞬にして血に染まる。緑青に輝く翼が舞い、黒い嘴にはたんと今しがた眠っていた蛙の血が。蛙の身体は引き千切られ、土色の薄い皮が白の筋と赤い肉となって空気に晒される。ときどき口笛でも吹くように啼いては、蛙の内臓をまた抉りだし、皮を剥ぐ。少しばかり乱暴ではあったが、カワセミはまるで料理でもするかのように蛙を潰した。シェフのカワセミは味見もしないまま、あらかた肉片や臓器を巻き散らすと、また美しい翼を広げ、空へ還った。そうやって蟹たちはまた、新しい食を手に入れる。すべてはみどりの毛皮のうえで起こったことだった。男の身体はさながら舞台装置であった。演者たちは死を賭して舞台に挑んだ。しかしながら、彼らのだれもこれが劇であることを知らなかった。男は劇中に演者に口出しすることは愚か、手出しもしなかった。男は監督でも演者でもなくただの舞台装置だった。演劇中終始、男の目は虚ろだったが時々微笑んだ。それは人間的なものではなく、穂を風が揺らすような無意味な営みだった。

緑の毛皮のうえで繰り広げられる、こうした劇はわたしを除いて他に聴衆はいなかった。男は観客のいない劇場だった。男には手があったろう。今や苔に覆われて指さえ満足に動かせないが。待つということはこんなにも恐ろしいことなのか。男は口周りに蓄えた苔を揺さぶりながら、笑っていた。口からは胞子が飛んでいるように見えた。男の口から言葉が飛び出し、胞子と混ざり合ってわたしの顔に覆いかぶさった。

陽光を浴びるであろう隙間であれば、どこにでも生えるだろうやくざな雑草の群生。光を求めているとは思えないほど暗いところで犇めく雑草の群生。沼の周りはそういう雑草に取り込まれていた。雑草を超えると谷に出くわす、谷の底には無限の砂漠が広がっていて、底にはある部族が住んでいる。

部族はほとんどの時間を歩いて過ごす。もともと肉体があったのかはわからないが、彼らは生きた骸骨の集団だった。骸骨といっても非常に頑丈な作りで、特に彼らの頭は硬かった。ある愚かなた尋ね人が、何を血迷ったか、突然、部族を襲いかかったときのことである。砂嵐の渦中にいる骸骨の群れに目にとめると、マントを翻して両手に抱いた黒曜石をきらきらと輝かせると、部族の前に跳ね上がり、一つの骸骨目掛けて黒曜石を振り下ろした。石は骸骨を砕くことなく自ら砕けてポッキーのような快活な音を立てて割れた。

どれだけ硬いかわかって頂けただろう。しかしながら、話はこれで終わらない。

そのちびたのかけらが、なんとその旅人の目玉を軽やかに貫いたのだった。旅人の左目から石油のように血が湧いた。旅人は倒れこみ、空を仰いだ。指の隙間から間欠泉のように噴き出す血が雨のように部族に注がれた。ある者は血に染まったまま立ち尽くし、ある者は退いた。部族は濡れてしまうとばらばらに崩れる運命にあった。彼らにとっては雨は絶望だった。濡れると彼らは死ぬ。しかしながら死よりも重いものを部族に運ぶ災いだった。

この日はいつものような砂漠日和だった。大地は渇きり、空は澄み切っていた。ひび割れた大地のうえでは空の風が舞い、砂を散らせて遊んでいた。ぐるっと連なる花崗岩の岩山のうえには猛った灼熱の太陽が昇り、大地にあるものすべてに影を与えていた。

同じような晴れた日のことだった。毛の薄いトリは旋回しながら風と戯れ、死肉を求めるコンドルは腐った肉の匂いを嗅ぎ付け、太陽のほうを目指して進路を変えた。荒れ地にも草地があった。脛丈の草が群がり、まだ青いもの、糸のような茶色のものがゼブラ模様のように凌ぎを削り合いながら生を営んでいた。幹はスカスカになっていたが、背の高い木が何本かあり、小動物たちがそのしたで休憩をとっていた。しかしながら、部族にとって小動物たちは眼窩にさえ映らなかった。彼らはてんで彼らに無関心だった。また動物たちの瞳にも彼らの姿は映らなかった。二つの群れはすれ違った。白い脛の群れは宛なく脛丈の草をいつものように横断した。

クリーム色の大布がばさばさとはためいていた。そのしたの陰で、金色のすね毛に覆われた異邦人たちが背もたれにかけて休憩を取っていた。異端な光景が部族の足を止めた。

異邦人のうちの一人は掌より少し大きな襞を必死に睨んでいて、その隣にいた男は襞に向かって手を動かしていた。異端だった。雨が降るまで部族は歩き続けてきた。雨以外は決して止まろうともしなかったし止まれなかった。雨に濡れれば彼らは死ぬ。それもたしかに止まらない要因の一つだったろうが、部族はそれ以上に何もしないことを恐れていた。彼らは退屈の過ごし方を知らなかったのだ。だから、雨の日には雨に飛び込んで死ぬものもいた。彼らは死んでいく仲間を見て暇を潰した。骸骨がふやけ、ぷりんのように砕けていくをずっと観賞していた。骸骨が白い土になるまで雨は止まなかった。雨になると必ず独りは死を選んだ。死は退屈よりも軽かった。

次は自分が死んでもお構いなしの連中だったから、いつ死んでもよかった。だからだれも死ぬものがいなければ、勝手に走って雨に打たれて死ぬだろう。だれに諭されたわけでもなく、おのおのがチキンレースを別のサーキットで始める。退屈に屈したものは死を選ぶだろう。しかしながら、勘違いしてはいけない。生者と死者とを隔てるものは忍耐強さだったと。それよりももっと不条理で不平等な、不公平な、あらゆる不を集荷する偶然が生と死のあいだを絶対的に隔てていた。そして、もう一点、死者はだれかのために死んだわけではなかった。彼らは群れだった。しかし、孤独だった。同調圧力とかとは無縁の世界で彼らはおのおの死と退屈を選んでいた。また雨宿りしている部族は退屈に打ち勝ったから生きのびたというわけではない。ただ悪魔的な二択を仲間の死を観察することによって一時的に忘れていた。

チノパンにサファリシャツ姿の異邦人たちは金に光る腕毛や足毛を風になびかせながら、本に夢中だった。しばらくは部族に気づかないでいた。だから青い目が部族を捕えたときには、部族はどきりとした。考えてみるといい、絵画のように非現実的な光景に埋没したその世界の登場人物がじつはわたしたちと同じ世界に住んでいたときの驚きを。異邦人は口髭を手で覆ってひそひそと話し始めた。指の隙間から子音の破裂音が風に乗って向こうの岩山の山頂ではぜた。異邦人は手に持っていた本を荒々しく投げ捨てた。本がドスンと地面に寝ころんだ。そのとき、待ってましたといわんばかりの風が本のページを猛烈に攫った。風が本を読んでいる。異邦人たちは手当たり次第に辺りの草や枝をを脛毛でも毟るように捻り千切り、ぶつけ合い始めた。急な転調に戸惑いながら部族たちは彼らを仔細に眺めた。

しばらくすると、一方の男が投げた草の根に混じった土塊が一方の男の鼻に当たった。それに腹をたてた男の口がはぜて子音の破裂音が漏れ、濁音まじりのそれとともに白い歯の隙間からうまれたてのようなベロが顔を覗かせた。らんらんと赤く濁る目と燦燦と鋭く尖った視線が異邦人を四隅に銀があしらわれた本へと導いた。顔の汚れた異邦人はそれを拾い上げると、片割れの異邦人の真上へに振りあげった。男はまるで鉄槌にうたれたかのように首ががくんと九十度にまがり、お辞儀のような姿になった。男は隙だらけの背中目掛けて本を振り下ろした。下半身のほとんどが土に埋もれるころには、雄叫びをあげていた男の息が上がり始めていた。ぜえぜえと肩が揺れていた。異邦人がとどめの一発に腕の可動域の限界まで本を振りあげたときには、へそに一本の万年筆が突き刺さっていた。異邦人は膝から崩れ落ち、もう一方の異邦人に覆いかぶさった。

部族は理解の不可能さのあまりにしばらく動けそうになかった。

もとより雨は降っていなかったから、部族はまた歩き出した。しかし、部族のうちのある男は一人残って、尋ね人の目玉からちびた石を抜き出そうとしていた。取り出したときにはかつてないほど血が噴き出したが、しばらくするとこぷこぷと湧く四万十川の源流のように穏やかになった。ちびた石は朱色に染まっていた。男はそれをほぼ垂直に傾けて地面に筋を引いた。風が熱心な読者のように朱の線を攫った。

風は男の掻いた何本かの線を散らして別の模様を生んだ。男は風と話しているような気持ちになった。男はまたこどものようにそれに応えた。まるでチェスでもしているかのように風は男が書き終えるのを待った。やがて線は渦を巻くようになった、直角に曲がり、途切れ、別のところから始まり、書かれた線と交わったり交わらなかったりして、線のあらゆる可能性を男は試した。

風によって乱れた線の群れが、ある瞬間から、別のものに変わった。長く縦にひかれた線たちは葉を茂らせ、樹木に化けた。弧を描いた線はその木陰で安らぐ動物たちになった。草木は泡立ち、彼らの毛皮は黄金に輝いた。大きな大きな弧は山となって連なり、見たことのない鳥が空を翔け、草を食む虫やそれを狙うトカゲたちが生き生きと地面に描かれていた。男はあまりの感動に胸骨が震え、諤諤と顎が鳴るくらいに両手は震えた。男は風の絵に色んな線を加筆した。また風がさらっと流れると、別の光景が生まれた。風景は男の知らない世界だった。世界は無限に広がった。

男と風のハネムーンは男の手が風に捥ぎ取られるまで続いた。男の朽ちた手は風に飛ばされ、風とともにもに舞った。男は知らなかった。腕があんな風に踊れるのを。男は泣いた。掌はまるで野草のようには風に揺らめき、朱に染まった指は咲き乱れて、肘は四方八方にスウィングを打った。眼窩の暗闇が一段と濃密になった。男は死にきれなかった。涙をたんと流しながら風の独壇場と化した世界を見つめた。もはや風は男の存在を忘れて腕と戯れているようだった。あの美しかった世界は男には理解できない模様へと変わった。男はいま、雨を望んでいる。やってくるだろう死を、腕たちの死を、そして、この世界が消え去ることを、男はつよく望んだ。しかしながら、雨はついにやってこなかった。男はあとから自分が死んでいることに気がついた。男にはもう身体がなかった。朱色にまみれた身体はどろどろに溶けていたのだった。風が死んだ男から腕を奪ったのは優しさだったに違いない。死の宣告だった。

緑の男は顎髭の代わりに生えている顎の苔をむしり、去る風に乗せた。わたしはこの男が死んでいることに気がついた。わたしは風にならなくてはいけない気がした。風になって、男の死後の世界をぶちのめさなければ、いけない気がした。そして、わたしは高らかに叫んだ。「余は風なり。きみに死を宣告するものである」すると、わたしはほんとうに風になった。一目散に像の元へ吹き、木っ端みじんに像を吹っ飛ばした。世界が終わった。わたしはまた、丘に戻っていた。

男は起き上がった。女はもう部屋にはいなかった。寝ぼけた眼を擦りながら、必死に女の名前を呼ぼうとしたが名前が思いだせなかった。おおおい、おおおい、おおおい。だれも返事はなかった。男は机の上を弄った。何の置手紙もなかった。女は夢のように消えてしまったようだった。意識が明朗になるにつれて、女の顔はぼやけていった。男は狂おしくシャツの襟ぐりを掴んだ。窓の隙間から風が吹き、見上げると、いつの日か干した衣類が揺れていた。部屋に偲んだ風が眠る前に書きかけていた原稿をはためかせた。