視線の辛さ

自己責任という名の元で、ファッションを嗤うという、行為が正当化されすぎていないか。性別や出身地は選べないが、服は選ぶことができる。マイノリティを嗤うことは許されないが、ファッションを嗤うことは許される。私は別にお前らに見せるためにファッションをしていないし、そもそも大して派手なモノを着飾ったりはしていない。私はこの時に、女性と同じような気持ちになる。女性が男性に胸を直視されるときに抱く気持ちがなんとなく分かるのだ。視線は本当に気持ちが悪い。全て伝わるような気がする。目というのは脳に直接、映像をぶち込んであらゆる想像の種を撒く一つの器官だ。純粋に気持ち悪い。私の場合は嗤われるだけで、相手の想像のなかで蹂躙されることもないが。太宰治が「笑われて、笑われて、強くなる」と言っていたが、ありゃあ大嘘だ。不快なんだから。じゃあ、止めればいいじゃないと仰るか?止めれるもんなら止めているよ。根性とか信念とかないよ。ただそうすることが普通で、普通であることで精神を健全に保っているだけだ。そういった意味では芸術をやっている。何とか歩くために。私のファッションは健康法だ。毎日同じ格好をしないというのを2,3年続けている。詩を書いて、コラージュを作って、カラオケで歌って、ファッションをして、そうでもしないと頭がおかしくなる。止めればいい、そもそも止まれることを初めからやっていない。それを嗤う奴らに対してどの指を立てるのが健全か、私は知っている。中指以外に他にないだろう。私は毎日、殺してやると思いながら街を歩く。実際に人を殺したり、傷つけたりはしないけど。嗤われることには慣れないし、慣れようとも思わない。慣れることなどあり得やしないだろう。私にとってそれは、誰かにとっての肌の色であり、目の色である。私は勝手に一人で部族をやっているつもりだ。そして、ソロイストである。だからソロ部族をやっていると言ってもいい。嗤われたことのない人間が嗤う。もっと嗤われればいいのに。そうすりゃあ、他人に寄り添えるのに。でも、そんなこと出来ないよな。恥じらいの国ではな。俺はやってるけど。お前らには一生かかっても出来ないよな。