第五回棚田全段万里の長城流しそうめん

ヒマラヤほどの棚田に、ミサイルほどの竹を組んだのだから見渡せる訳がない。例年に漏れず、そうめん台はエロティックだった。畦なのか畑なのか判然としない茫々と茂る緑から節取りされた竹の断片が現れたかと思えば、蛇行してまた茂みに消える。穂波ちゃんの頭上を番線でツガイにされた竹二丁が渡る頃には蛇は次第にうねりを小刻みにして最下段まで降りていく。でかい蛇、まあ、つまるところ龍だ。

そうめん台には、写真には写らない美しがある。それはずっと変わらないし、変わることはないだろう。だが、我々はあまりにも慣れてしまった。もはや、東と西田に至っては業者である。それもそうだ、五年も同じ時期に龍を作っているのだから、要領も得る。要領を得れば、制作時間も短くなるし、流す汗も減るし、制作に必要な人数も少なくなってくる。

我々が死に物狂いで作っていた龍はもはや普通に作れるようになってしまった。今後の制作でも、我々が高揚感に包まれることはないだろうし、ましてやトランス状態に入ることはなどないだろう。そして何よりも、もはや興奮-アドレナリン-を流しそうめんに求めていない気がするのである。つち式が始まった頃、我々は20代の前半から中頃で、憤りがあり、怒りに満ちて、社会のあらゆることを唾棄し、disり笑い倒す集団だった。それが来年にはイシヤクを除く構成員、全員が30代になる。

だからと言って、そうめん台制作を止めようとは誰も思わないだろう。トランス系棚田全段流しそうめんから、未だ何系なのか釈然としない棚田全段流しそうめんが孕まれつつあるような気がする。不思議なものだ。そうめん台、龍自体は何も変わらないのに、なぜ龍を作っているのかが分からない。トランスだけが祭りではないことを知りつつある我々の世代を横目に、別の世代の駆け足が聞こえてきそうな気さえする。我々にとっての棚田全段と彼らにとっての全段は全く異なれど、同じ龍を見ている。