わたしは本町に踊りでた

わたしは本町に踊りでた。昼休憩中のOLたちに囲まれながら、タンクトップ一枚で先日、東くんから貰ったたぐいを読んでいる。喫茶店には四名客、二名客が二組ずついる。それとカウンターに座っているおっさんが一名と四名席に鎮座するタンクトップの男、つまりおれが一名。若さを失った女と若い女のグループの会話を些細に観察したり、おっさんとマスターの会話に耳をそば立てる。人の声が幾重になり、ストローでアイスコーヒーの氷を混ぜる音、沸騰した湯の音、障りのないジャズのBGM、わたしは神のような視点で、むしろ透明人間みたいな立ち位置で空間に鎮座しているわけだ。

家は堕落する場所であり、本を読む場所ではない。あの陰湿な、服の山に侵された六畳一間は思い煩い、寝るかシコるか、ネットサーフするためだけにある。ラブホテルはやるためだけにある。あの部屋は病垂のためだけにある。

スタンダードブックストアが閉店して以来、本を読まなくなった。そこは私にとって、本を読む空間だった。お陰様で、あてもなく街を彷徨い、消費するようになった。被害は甚大である。精神が乱れている。

わたしは空間を認識し、その場所に合わせて変容する。わたし単体は何者でもない。空間がわたしを形作り、行動を促す。

実家には部屋とは別に勉強部屋があった。狭いところに学習机を二つ並べただけの重苦しい部屋である。一回にあるのに、ラブホテルみたいに窓がはめ殺しだった。その場所で宿題をした記憶がない。廊下やら階段で勉強していた。母親はそのような光景を見ると、わたしを怒鳴りつけて「お前は自分の環境に感謝しなあかんねんで」とよく尖った。天王寺動物園の象小屋に入ったことがある。コンクリートの壁に覆われたグレーの建物は部屋というより収容所、監獄であった。象のストレスを軽減するために象が壁に体をぶつけても数センチ動く構造になっている。とパンフレットに書いてあった。象の気持ちは分からないが、わたしの心は穏やかではなかった。狭くて何もない場所、狭くてものに溢れる場所、狭くて無駄がない場所。

家業が夜なので色んな女を見ることが多かった。幾つになってもメスはメスという詩を書いたことがある。今、目の前に座っているメスたちの会話、メスの容姿、社会でしか生きていけないような人間に憐みを感じる。だからグレートギャツビーのデイジーの言葉は胸を裂いた。歳をとってもなお、男にとっての女を演じ続けなければならない、女の苦しさ、生き辛さ、デイジーにしろ、母にしろ、道ゆく多数の女を見ると哀しい。