ありがとう、ホドロフスキー

エンドレスポエトリーを見た。ホドロフスキーの伝記的な映画なのだろう。夢のような構造をしている。街の人間には顔がなく、父親も母親も過剰に脚色されている。彼の実際の母親は映画のように愛に満ちた女性ではない。また映画に描かれた母親はホドロフスキー自身が望む母親像でもない。映画の彼女は母親自身の願望、その母親がなり得た女性像だ。

ホドロフスキーの映画は記憶だ。記憶に包含された過剰さ、歪みを排除せずに映画にする。彼は映画を使って彼のカタルシスを達成させながら、野生の思考、創造の草原へ鑑賞者を誘い、他者の欲望を解放する。

映画エンドレスポエトリーで、若いホドロフスキーが父親と殴り合い、和解するシーンがある。二人は取っ組みあった後、握手を交わす。そこに88歳のホドロフスキーが登場し「違う、本当に君が望んでいることは」と二人を抱き合わせる。すごない?そのあと、二人はチューするねんけど。

このシーンもすごいねんけど、その前に「ブルトンを助けるためにパリへ行く」ことを決意したホドロフスキーが詩人たちに別れを告げに行き、「独裁者イバニェスに死を」と一人でパレードに立ち向かうシーンがある。

えげつないものを見せられた。映画を見終わったあと、風呂場の縁に顔を突っ伏して動けなかった。自分が情けなくて動けなかったのかもしれない。この映画は完全に来るべき者のために作られた映画だったから。ありがとう、ホドロフスキー。最高の二部作でした。三部作目も待ってます。