あぶれる

あの時代のことが話したくなった、日韓W杯の時代の。当時、小学四年生。ちょうどサッカーを始めた年だった。小泉さんが韓国と共同でW杯を開催すると言うたとき、生野区がどよめいた。夕方のニュースにコリアンタウンで店やってるおばちゃんがマイクあてがわれて何か喋っとった。友達のお父さんが芥川賞獲った時くらいどよめいてた気がする。あの時はミレニアムで父親に「1世紀は100年に1回しかないけど、あんなに騒ぐ必要ないねん。やかましい、テレビ観んの嫌なるわ」と半ギレで大人の常識を教えてもらったが、おれはあんまり分かってなかった。100年も10年も10歳なってない子供には遠いこと、ちょっと大人になった気はしたけど。

みんな日韓交流やらなんやら言うてた。ヨン様流行る前やったかな。日本人も韓国人もよう分からん。分かるはずがない。みんな、普通に日本語喋ってるし顔も同じやし、名前がキムなんか、パクなんか、佐藤なんか、田中なんか、それくらいの違い。でも、同級生のマセた奴なんかは親の影響で日本のことをボロカス言う奴もおった。みんな別にただの子供、サッカーやって勉強してスカートめくっておっさんにしばかれて、地域の頭おかしい人間と友達みたいに喋って一緒にサッカーやってホームレスと友達になって遊んで、車の下にしゃがんで、にゃあにゃあ鳴いて猫呼んでみたり、別になんもかわらへん。だから、国のことなんか気にしたことなかった。

その時くらいにすごいヘイトな本出てたけど、誰も気にしてなかった。流行ってるらしいってのは知ってたけど、コンビニでジャンプ立ち読みして駄菓子屋いってブタメン食う生活にそんな本が入る隙間がない。

そういえば生野ワールドカップっていうフットサル大会も開催されるようになってた。全然ワールドじゃない、イッツアスモールワールド。そこにもテレビが来て「日韓W杯についてどう思うか?」と優勝したチームのキャプテンが訊かれてた。当時は生野W杯ってすごい大会やねんなあと思った。優勝したらテレビにインタビューされんねんから。それが日韓W杯の影響やったってことに小4が気づけるわけがない。

それから2年経って小6。パープルサンガの本拠地で試合することになった。京都市がオーガナイザーだったと思う。ソウルから招待されたユースチームとサンガのユースチーム、それと生野選抜。なんでそこに生野選抜が?とは思いつつ、10番を渡され、なんで俺が10番なんやろうと思った。生野区の各チームからの選抜なので悪い気はしなかった。試合は2-2、おれは鈍臭いアシストと、背中に背負ったDFを、パスをもらうふりして誘導し中央にスペースを空け、隣のチームの上手い奴が縦に抜けてそのままゴール。だれもおれの栄誉を讃えてくれなかったが、自チームの監督がすごい褒めてくれた。手応えとしては悪くなかったのでよかった。

サンガのユースは4-2でソウルのユースを下した。おれって結構サッカー上手いんかもなと思った。その試合が終わると、交流会という名の晩餐会が開かれた。金メダルみたいなものを首にぶら下げれると、一斉にカメラのフラッシュが焚かれる。すごく有名な人になった気がした。白いテーブルクロスの上にフォークとスプーン。隣のチームの奴と目を合わせてニヤニヤしながら椅子に座った。宴も半ばになってくると、みんな席を立ち始め、色んなとろこに輪ができた。

サンガのユースはソウルのユースと砕けた様子で接している。生野選抜は、席を立てど生野選抜の輪から出ようとしなかった。各ユースもこちらに来ようとしなかった。それが当たり前かのように時間は過ぎて、帰りのバスの中でなんでおれらは招待されたんやろうと子供ながらに考えた。あれ以来、両袖に日本と韓国のフラッグをつけたユニフォームに袖を通すことはなかった。読めないハングル文字が胸にラバープリントされているユニフォーム、白と赤のユニフォーム。レガースが膨らんで見えるほど細い足で、ハーフパンツの下は白いブリーフ。私たちは溢れていたのだと知るのは、それから20年後のこと。