展示に向けての整理運動

私にとって服は咲いているのかもしれない。数ある服の中で一際、焦点が合う服、これを咲いていると言ってもいい。今まで名前も背景も知らなかったことが嘘のように、その服のそれを知ることで知覚が急激に膨らみ始め、風景が立体的になる。これは、雑草と呼ばれるものの名を知った後の世界が、今までの世界と全く違うこととよく似ている。服だけにフォーカスを当てると、服は着るものだから纏うと身体が組み代わり、態度、思考に影響を及ぼす。

名は知らずとも、飛び込んでくる服、名を知って奥行きの増す服と光景。私の場合、服によって現実はどんどん膨らみ、立体的になる。現状、花とは違って服は市場がベースにある。その市場を無視することは完全にはできないが、それを少し外して世界を見ると、世界はなんとおもしろい服とくだらない服と自分の知らない服で溢れていることか。

いま、工場でせっせと作られている服は、ゴミ箱直送、捨てることを目的に作られた服が多い。リサイクルショップで働く私にはとてつもなく辛い。残すべきもの、棄てるもの、を選別する立場にいる身としては棄てる服の尋常でない量を痛感させられる。服には雑草でしかない服がある。雑草であること、造花であることを目的に作られる服があるからだ。それを身にまとうことのそら恐ろしさ。思考や振る舞いが服によって変化するのであれば、棄てられるために作られた服を着ることがどういうことか見えてくる気がする。ちょっと言い過ぎかもしれないが、制服、民族衣装、服が着られてきた背景を考慮すると言い過ぎではない気がする。

服の解像度を上げる。上げることで奥行きが理解できるようになる。ある人は服で、ある人は植物で、ある人は焼き物で、ある人はコーヒーで、ある人は音楽で、人の数だけそれぞれの世界があり、その世界の数だけ現実がある。

ここまでは、本、知人との会話で考えていたこと、思考していたこと、理として自明のこと、既知のこと。それでも今まで忘れていて、知人が始めた庭声というラジオで思い出した。でも、ここから先は違う。見えてきたこと、実はそうなんじゃないかと思うことを実践する。

循環する世界のうちの一つの営みとして、人間は服を纏い分解され、更新される。人は服=身体を取っ替え引っ換えし、人の身体を着ながら日々朽ちては更新される。服は振る舞いを生み、知覚の領野を広げさせ、突然明け渡され、誰かの身体になる。当たり前に人間の暮らしにある服が捨てられるために作られ、人もまたそれを求める。おかしくないか。私は積年の疑問を解放し、ゴミ箱直送のアパレル産業、いや、服とその流通を超えて、服と人間を翻訳し更新する試み。