factio

自分の秩序を壊し続けるのがファッションだ。ファッションの語源、factio(ラテン語)は成すこと、創造である。となれば、同じようなスタイリングに縛られ続けるのはファッションではないのである。そのスタイリングは既に成されたのだから、同じことをやり続けるのは創造ではないし、その先に成すことなどない。 私は自分の中のアングラ臭を葬れなくて悩んでいた。これが自分の限界なのかもしれないと思い、やめようと思った。どんな服を着ても、自分の癖がついてしまう。全然見た目は異なるけれども、同じアルゴリズムで作ってしまう。このままでは、生成変化することができない。と思った。根本的にアルゴリズムの組換えを余儀なくされていた。それはファッションという名において、自分の健康において、である。 社会人だし、体調の波、精神の波は揺れまくっている。おれの湖には常に散弾銃が撃ち込まれて、おれの湖に泳ぐ魚の俺、鳥の俺、タニシの俺が無残にも殺されまくっている。いつも湖は真っ赤で、死骸=感情が打ち上げられずにプカプカと湖面に浮かんでいる。だから体調も精神も揺らぐのは仕方ない。社会人であり続ける限り、言葉は死に続ける。詩はアンビエント(環境音楽)だ。 延命措置のようにファッションに手を伸ばし、カタルシスの浄化も含みつつ、毎日別のスタイリングをし、どうにか歩いている状況だ。 で、仕事をさっぱり辞めたとする。本当に死ぬような気がするのだ。私は全てが嫌になって就職した。金がなくなっていくのはヒヤヒヤするもんだ。楽しいことがあっても金のことを考えると寒気がする。タバコを買うのに部屋の小銭を集める。ああゆうのはもう懲り懲りだ。仕事はやっぱりしたいのである。多分、心臓が小さく、度胸がないのだ。ただ息をして吐いてゆっくり眠りたいだけなのに、なんで金なんかいるんだ。生きるだけで金がかかる。そう思うと死にたくなってくる。死にたくないから死にたくなる仕事をやりながら、死なないように服を着る。 だから、結局factioなんてどうでもいいのである。でも、流行の波のなかで波になっちゃってる人を見ると、おまえらはファッションじゃないと思うのだ。本当にそれを望んでいるのか、それがしたい格好なのか。たしかに私には、したい格好なんてない。でも、オーセンティックの中に毒薬を仕込んだりとか、オーセンティックを毒だけで組んだりとか、そうゆうのをすると興奮する。しっかりまとまり、新しい秩序、彫刻が生まれると嬉しい。その秩序に絡め取られて、身動きが取れなくなって壊す。このプロセスが好きなんだ。それだけの話で普遍でもなんでもない。でも、factioは成すこと、創造なんだ。おまえらに出来るか?って話