ファッションのリアリティ

服を着て終わる。これが殆どの街の人間の在り方かもしれない。どんだけ着飾っても街を歩いて終わる。スタイリングをした段階で終わりを迎える。一日の始まりから終わり。そういった日々に物悲しさを感じたことがないか?おれは大いにある。むしろ、それが積み重なったのが今の自分であるとも思う。東京は、おもしろいスタイルの人が沢山いるので大阪よりも悲しみは和らぐ。知らない街にいるという高揚感も手伝っているとは思う。でも、住んでみれば多分、どうしようもなさ、着て終わってしまう悲しみ、そこから一日が始まるやるせなさに襲われるのだろうと思う。

今、月に一度棍棒を製作しに大宇陀まで行っている。これがすごおく楽しい。棍棒作るときに、何を着てたらかっこいかを考える。そんなもんサッカーのユニ以外ない。棍棒を構えたとき、どんな服を着てたらかっこいいか、そんなもんサッカーのユニ以外ない。棍棒用の制服なんてものはない。作業着を買う気はない、汚れていい服だけ着ればいいという脳はない。何を着れば、快適で棍棒と渡り合えるか考える。棍棒を作る中で汚れていけば、かっこよくなってくるスタイルを考える。

ゲームシャツはやっぱり棍棒に合う。街でだらだら歩いているよりもガツガツ棍棒削って振り回してる時の方が数段かっこいい。棍棒の野蛮さがゲームシャツの野蛮さ、シナジー効果で野蛮さが8倍になる。服には、その服に見合った動作がある。その動作の中で服は真価を発揮する。だから着ることは始まりでしかないのである。歴史を振り返っても服着てはい終わりなんて一日はなかったはずだ。服を着ることはいつでも何かしらの始まりだったはず。目的があってその服を着る、目的のためにその服を選ぶ。

快適で作業を邪魔せず、棍棒と相性がよくしかも新鮮味があるスタイルを考える。服を着て始まる。動作の中で服が馴染む。変化する環境(天気、湿度、温度、おれの体温と汗)のなかで服が適切な形になってくる。こうゆうのが服を着ることなんじゃないかな。服を着ることが終わりである、はずがない。あの悲しみは、ファッションのリアリティのなさを嘆いていたんじゃないか、と思う。