猫の名前は複数形

カイくんの家には三匹猫がいる。名前を聞くと呼び方が家族によって異なるから幾つかあるらしい。ややこしいこと極まりないが、各々好きな名前で呼んでいるらしい。そう言えば、飼ってた犬にそれっぽい名前を読んで反応するかしないかっていう遊びを暇な時にやってたのを思い出した。犬はどれにも反応した。前脚を伸ばし、お尻を突き出して尻尾を振る。多分、声色で判別しているのだろう。人間の言語には固有名詞がある。他の生物からすればどうでもいいかも知れない。人間は名を与えられると、全体から個として掬われ、世界に結び直される。我々の誕生は再接続だ。切り離されて結び直される。だから何度でも生まれなおすことができる。死はその終わりだ。人間は生きていれば変化し、変身し続ける。レボリューションの原義は回転を意味すると、知人が言っていた。宮沢賢治は変身を螺旋と言っていたと、知人が言っていた。ベケットは同じような水たまりで溺れても前と同じ水たまりではないと言っていた。でも、まあ多少違えど似たドブを攫い続ける者はいるだろうし、多くはそうだろう。軸みたいなもんがあってその周りをぐるぐる回っているからだろう。『でも』その軸から別の軸へ移ることが変身ではないか、いや、そうではない。それは人から犬へ変身するようなあり得ない、想像の世界の類に属する現象だ。私たちは犬になることができない。その自明性のなかで、いかに犬のように振る舞うことができるか、猫のように振る舞うことができるか。それだけの話だ。生まれ変わることなどできない我々は生まれなおすことしかできない。だから犬の素晴らしいところを一点抽出し、お前の骨髄に注入してみよう。その素直さ。その素直さを犬のように、真っ直ぐ表すような人間になれば、お前は変身したと言ってもいいのではないか。変身に重なる変身に次ぐ変身でもはや何人でもなくなろうが、それを薄ら囲うものが名前であり、中身はキメラ。薄らぐものは薄らぐ、濃くなるものは濃くなる、その緩急にいちいちイチャモンをつけて流れを滞らせてはいけない。