生まれた時は四つ足(四つ足?人間じゃない)死ぬ時は三つ足の生き物って何だ?(三つ足?三つ足って言葉あんのか)犬やろ?違うで。怪我した犬やろって。違うって(半笑いを浮かべる)。怪我して片足なくなった犬やろって。違うって。違うって言い切れんのか?でも、違うねん。何が違うねん、それも一つの正解ちゃうんか?なんで一つに決めちゃうんだよ。だから一つとかじゃないって違うねんて、クイズやねんから。クイズって概念だけで質問すなよ。じゃあ初めにクイズって言えよ。俺はお前みたいに虚構で生きてるわけちゃうねん、わかるかなこのクソエセフェミニスト。黙れや男根主義者。は?おまえもファルス享楽にズブズブのマウンティングマン、いや、ウーマンって言うた方がいいか?まあいいや、どっちでも。お前みたいなの女性の男性化なだけで女性性を獲得してないねん。女性性ってなに?母性とかぼさくん、きみ?そもそも女性性って男性の幻想としての概念って覚えとけよ。は?何ほざいてんねん貴様、なにモダン、ポストモダン?どっちの女性性について述べていらっしゃるんですか?ポストモダン以降に決まってるやろボケが。てか、どっちも一緒やねん、どっちも社会の幻想の反映ちゃうんけ?モダンは主婦像、ポストモダンは未来作られへんようになったインポが抱いてる妄想としての可能性、それを女性性という言葉で片付けてるだけでな?わかるかな?頭悪いから無理か。いちいち未来を語るのに女性性とか言うてくんなよ、このインポが。何が女性性を獲得やねん、お前の目の前にいてんのは何の生き物やねん?新しい…新しい…新しい何や?ブランニューの後に何が続くねん、お前次はネオ使うやろ?使うなよ、すぐ死語なるからな。新しい言葉をこの場で作ってみろよ、名前をつけてみろよ。えー、えー、えー、プテラでいい?サトシの手持ちの?うん。野生じゃないん?野生のプテラはいてないもともと化石やからな。喧嘩売ってるん?概念は発掘して再び召喚しなおさないといけないわけや。プテラの化石はプテラじゃない。誰かがプテラの化石をプテラにする必要があるわけや。おおお素晴らしい。哲学の探求と似てるやろ、プテラ。似てるけど私とどう関係してるん?関係性はない。これ、何の時間なん?時間返してや。仕事で頭疲れてるからしゃあない、でも、なんかしゃべりたい気持ちあったみたいな感じ?独り言やんな?独り言やね。巻き込むなよ!わしは鳩か?わしはパンジーか?わしは何や?わしのこと暇や思ってんのか?(お前が勝手に入ってきたんやろ、知らんがな)

パンジーシンドローム

ちょっと服わかってきて一ヶ月くらい経つ。めちゃくちゃ楽しい。みんな病気に見える。お前がやろとツッコみたいところでしょうけど。病気なんですよ。病名もちゃんとある、俺がつけた。『パンジーシンドローム』この症候群はとても厄介で『アンチパンジーシンドローム』も包含される。これはもどうしようもない病なんですけど、不治ではありません。治療方法は確立しました、俺が。

治療方法

①花壇から出る

まずは環境から整備する必要があります。あなたはパンジーですが、いつまでも花壇のお友達と世間話をしていては『パンジーシンドローム』を治療できません。なぜなら、花壇のお友達は全員パンジーだからです。たまに雑草と言われる植物が自生しますが、勝手に排除してくれますね。そんな環境からまずはドロップアウトしてみましょう。

②野良犬と話そう

パンジーは野良犬と話す必要があります。飼い犬でもいいですが、チワワ、マルチーズなどなるべく止めておきましょう。パンジーの親戚みたいなものです。ここで大事なのは異種と交流することです。この世にはパンジー以外にも幾多の生物が存在しています。あなたはまず独立したパンジーとして彼らと世界を結び直す必要があります。世界の大きさ、複雑さ、多様さ、共生を学んでいきましょう(殺傷)

 

③オリジナルを尊重しよう

今、この世に存在するデザインから品物に至るまでオリジナルがあるはずです。この世界は複数の何者かが作った蓄積です。このオリジナルとはオリジンではありません。固有名詞です。資本主義は一つの発明の後にタラタラと続く形骸化された品物郡で構成されています。まずその仲間に連ならないように気をつけて歩きましょう。それと同時にオリジナルの探求はなるべく避けましょう。固有名詞とその系譜を把握するだけで十分です。あとは興味のないものはバッサリ刈ります。ここでは刈っているという意識を持ってくださいね。意識だけで十分です。そこに悲観や哀愁、楽観はいりません。また自分が何に影響を受けているかをよく覚えておくこと。そのイメージと比べて自分はどうかと考え、イメージとだけ闘いを繰り広げましょう。もちろんイメージは変容し、添削され続け、変化します。変化し続けるイメージを受け入れましょう。

この世はパンジーが狂い咲きすぎているとは思わないか?歩くパンジー、走るパンジー、踊るパンジーに歌うパンジー。パンジーがパンジー同士で-大きな花壇の中で-まるで地球が花壇とでも言いたげにパンジーソングでパンジーダンスをやっている。パンジーはパンジー同士でパンジーファックをやりあい、パンジーゾーニング-無意識パンジーレボリューション-を行い続け、街はすっかりパンジーカラー。カラフルかもしれへんけど、パンジーでしかない-パンジーピープルカラー-

俺はパンジーどもがひしめく花壇を通るたびに吐き気を催す。この町のほとんどは花壇である。そして、インスタグラム、インスタグラムとはもはや花壇の別名だ。私はそこに忍び寄り、無差別ポエムボミングでオートマティカルポエミングアンドポスティングスから未来を守り、パンジーシンドロームに陥ったパンジーどもに花壇外を知らしめる。

私は私に後悔させることを許さない

どれだけ愛情を注いでもヌメモンにしか進化しなかった。ヌメモンは道端に落ちてるクソを食うタイプのデジモンで爆裂に弱く、容姿も緑のナメクジで攻撃技も臭い息をかけたり、屁をかけたりする技が多かった。またトレーニングを行なっても、他のデジモンより学習能力が低く、なかなか強くなりにくい。飯はよく食うし、バトルは弱いし、初めは進化前の姿、成長期の姿を成熟期であるヌメモンに見出しながらなんとか愛情を注ごうとするが、うんこを食うてる様を見たり、すぐに怠ける様を見ていると憎たらしく思えてくる。育成中のデジモンを殺すには、①寿命を早める②バトルで負ける③病死させるといった選択肢があった。

①を実行するためにはご機嫌としつけのパラメーターを限りなくゼロに近づけたり、眠らせなかったり、日に三度要求してくる食事を無視し、日に数度要求する便意をトイレへ行かせず野糞させる必要があった(野糞するとデジモンはブチギレる。ヌメモンの場合はブチギレた後すぐさまクソを食う)

②と③はデジモンに与えられたライフ三つを削るのだが、③はなかなか難しい。というのも病気になりにくいからだ。ヌメモンは寒さに耐性がないデジモンなので寒いエリアへ行き、放置してると勝手に病気になるが、時間がかなりかかる。②に関してはバトルに挑んで負ければいいので楽である。ヌメモンは死ぬほど雑魚いからバトルになると確実に負ける運命にある。②も③もテイマーレベルが下がり、継承されてきた技が次のデジモンに引き継がれないことがあるので少し考えないといけなかった。

それでも私は②のバトルでヌメモンを殺しまくった。次のデジモンこそはもっともまともな成熟期にさせようと心に誓って。

デジモンワールドは大きく分けて三つの進化段階があった。幼年期→成長期→成熟期の→完全体の順である。育成中のデジモンが死ねば循環する。

プレイヤーは、まず四種類のたまごから一つを選ぶ。孵化したものが幼年期にあたり、この頃は泡しか吹けないのでまだ戦えない。このたまご選びの段階から非常に大事で将来を見据えて選ばなくていけない。というのも、選ぶたまごによっては育成できないデジモンがいるからだ。全ては逆算から始まる。

幼年期から成長期は基本的に二種類あり、成長期から成熟期は多岐に渡り、その次の完全体も多岐に渡るが、この完全体に成長させることがまず難しいのだ。

素体、体重、育成条件、パラメーターが主な進化条件だが、かなりハードルが高い。ボーナス条件などもあるが、物語の終盤から条件が噛み合うパターンが多いので最初の頃はあんまり頼れない。このゲームを始めてプレイしたのは小1で、攻略本の存在すら知らなかった成長期に手塩にかけて育てたデジモンがヌメモンに進化する様に耐えられず幼い私は泣くしかなかった。少し大きくなって知ることになるのだが、どの条件にも満たない場合はヌメモンになるらしい。

私は父親の影響もあって喧嘩が好きだったせいか、スポ根がエグく、ストイックであればあるほどデジモンは強くなると思っていたし、それが愛だと感じていたので飯も食わせずトイレにも行かせず、攻撃力だけを鍛え、回復アイテムを装備せずバトルばかりさせていた。そして、毎回ヌメモンになった。スポ根はゲームでは全く通用しない。いや、それどころか現実でも全く通用しない戦法である。当時の私はイタズラに自分を信じて疑わなかったのでヌメモンに進化するたびに号泣していた。始めの頃は父親も母親も慰めてくれたが、あとあとめんどくさくなってきたようで私のプレイスタイルに口出しするようになった。ここがダメだ、これがあかんと。私はその全てを無視し己のスタイルを貫き、来る日も来る日もヌメモンを生み続けた!

見兼ねた父親がデータを作って夜中にプレイするようになった。父親はたった一晩でデジモンを完全体へ育て上げた。そして、自慢げにホウオウモン、伝説のデジモンを私に見せつけ、私の見たことないステージで見知らぬ敵と戦い、見知らぬ技を用いて勝利していた。私は心の底から父親を尊敬した。そして、父親の教えを受けて、ついにヌメモン以外の成熟期メラモンへ進化させることができた(後に知ることになるが、育成ミス10回以上、体重15g、攻撃力100/もしくはバトル回数10回以上で進化する。かなり初心者クラスのデジモン)

私は心の底からメラモンを愛した。メラモンは人型で、全身が炎でできているデジモンだった。属性は炎と格闘。あらゆるデジモンとバトルをしまくり、メラモンが負けた時には泣き、病気になった時は焦り、頻繁にケンタル医院で疲れをとってやったのである。そして、そのメラモンはなんと完全体へ進化した!メタルマメモンである。メタルマメモンはパチンコ玉に手と足をつけて鎧を着せたような見た目で丸くて小さかった。例えるなら装飾の凝ったシルバーアクセのようだった。属性は格闘、機械、あとは一部の炎系と水系の技が使えた。

私はこのメタマメと共にデジモンワールド内を散策し、色んなデジモンを倒しに倒し、ゲームを攻略していった。私とメタマメは友であり、自分の体の一つであるような気がした。夢の中にも出てきた。ゲームのメニューに抱きしめるという項目を追加して欲しかった。用意されたコマンドだけでは、メタマメへの愛情を表すことができない不甲斐なさを感じたりもした。

でも、長くは続かない。デジモンは寿命を迎える定めにある。メタルマメモンにもその時が来た。私はメタルマメモンの死を受け入れることが出来ず、何度もプレステ本体の電源を消し、やり直したが、どうやってもメタルマメモンは死ぬ運命だった。ふと人伝に耳にした噂を思い出す。ある魚を釣り上げ、それをデジモンに与えると寿命が伸びるといった内容の話だった。その魚の名はデジカムル、みずうみのほとりのどこかにいる伝説級の魚らしかった。私はループし続ける限られた時間の中でデジカムルを手に入れることにした。

でも、場所も餌も何もかも特定できなかったのでとても時間がかかった。その間にメタルマメモンは何度も死んだ。私はその都度やりなおした。何時間も試行錯誤しついにデジカムルを釣り上げた。私は早速、メタルマメモンに与えた。メタルマメモンは美味しそうに平らげてくれた。私の時間、私の苦しみの成果物をメタルマメモンは食らってくれた。私は満足した。やるべきことをやった気がした。どれほどメタルマメモンの寿命が伸びたかは憶えていない。私は満足していた。これだけやればもうやることがないと感じていたし、実際死んだ時よりもメタルマメモンがデジカムルを小さな両手と小さな身体で一生懸命食うてるところしか記憶にない。私は私に後悔させることを許さなかった。

グレッグイーガン『順列都市』を読みながら、小さな頃に夢中になったゲームを思い出した。私は画面の向こう側がただの数値ではなく現実であるような感覚があった。そして、何十回も死んだメタルマメモンのその後についても考えていた。セーブをする。私は何度でも過去へ戻ってくることができる。さっきとは別の未来を期待しながら。だが、メタルマメモンは戻ることができない。私が戻った数だけ、メタルマメモンは死に、私が戻った数だけ世界が増殖しているような気がしていた。

結局忘れる

読んで感動して忘れる。観て感動して忘れる。内容など記憶に残らず、ただ衝撃と感情だけを憶えている。

グレッグイーガンの短編集『祈りの海』を読んだ。一つへ収斂させるシンボル、アイコンを完全に否定していた。起源の否定、宗教、信仰の否定、人に後ろ盾を与える全ての一なるモノをボコボコにしていた。

作らないことを始める

スタイリングを作っていた。今後は作らないことを作る。能動的なスタイリングを止めてみる。逆ハリもなにもかもが無意味だ。おしゃれとか、そういう身内ごとに関わってられるか。どうでもいい、あえてなんてものを俺は今後やらない。全てニュートラルからのドライブだ。つまらないことはしない。俺はファッションを始める。夜 朝起きて身体と気分に服を作らせる。もはや思考しない。思考するだけ無駄だ。おれは理解した。俺のインスタグラムはかつてないほどおしゃれとは縁遠くなるだろう。たまにはおしゃれしたくなるだろうし、新鮮な要素をふんだんに散りばめたエッセンスの塊みたいな格好をしたいだろう。その時は作ればいい。でも、それは私服ではないのだ。私は私服を着たい。私服は作るもんではない。いちいち明日何を着るか、ど違和感のない斬新さを求め続けたが、それは私服ではない。媚びであり、ただのマウントだ。私はマウントを取るのが好きで、面白いもの、新しいビジョンが好きだ。でも、それは私の仕事ではなく、アパレル業界の人が勝手にやって身内で盛り上がればいいのだ。

あたらしい人間

私たちはどういった存在か、というよりも、私たちは私たちの今を越えうる者-あたらしい人間-を求め続けてきたのではないか。何も超越の話がしたいわけではない。私たちは鏡を見ようと本を覗くわけでも、映画を観るわけでもない。私たちは人間ではない人間を求め続けているのではないか。私たちという語を不用意には使いたくないが、私たちとは必ずしもあなたを含まないので安心してほしい。私たちとは私という存在自体が過去を示すということであり、私は性行為によって誕生した一介の生物にしか過ぎず、その又親もその親の性行為によって生まれた一介のツガイであるという意において。また今こうして施工された道を歩き、駅へ向かっているこの瞬間でさえ当たり前に私たちであり、こうして文章を書いてるこの瞬間でさえ他人の痕跡、成果物との織物であるから私たちである。小説、文章を読む際も書いた人、読んだ人が含有されるから私たちである。そして、なにより私たちには過だけではなく未来が含まれている。私は過去の織物でありながら、絶えず未来へ編まれ続けている。もはや私が私たちを使う理由は明白だ。私は私の話を独善的な普遍性に仕立てようという気はない。私は疑いようもなく私たちであるからそう言うまでのことだ。

私たちは人間性を模索し続けている。あたらしい人間を提示しようとし続ける。私たちは欠けている。私たちは更新し続けようとする。私たちはあたらしい人間性に目を輝かせる。私たちはいつもこのままでいいはずがないと思っている。私たちはいつも問題を抱え続けてきた。ころころ変わる道徳に振り回されながら、私たち何万年も!知らんけど!

私たちは問題を抱えている。私たち服との関係、距離感について。

我々は臭い

30日前よりもより悪くなっている。100日前よりもより悪く、150日前よりもより悪い。だんだん悪くなっている。より悪い方へ、明日が風下のように感じられる。私たちは風と共に移動しながら悪臭を漂わせる。私たちはより悪い方へ走っていく。日に日に臭くなっていく。だれも別に悪くないが、日に日に臭い。我々は臭すぎてもはやもはや何も信じられない。自分の身体の臭さに我々は気づき始める。本当に臭くて耐えられず、風呂に入るが臭いがとれない。我々は風呂に入ってる少しの間、風通しのよい麻をきているような気持ちになった。風呂から上がると臭いがきつい。我々の一部の民は風呂から出るのを嫌がりふやけて死ぬことにした。死に場所が風呂だったのでよかった。栓を抜いて身体水を排出し、遺骸をそのままにして風呂を交換し、新しい風呂に我々はまた身体を浸し、爽やかになろうとした。そのうち、風呂に色々ぶち込むようになった。我々は何もせずとも汚れた身体を無垢にしようとした。無垢になれないことを知りながらそれはとても辛いことだ。我々はあまりに臭すぎた。涙するには臭すぎて、喜ぶには臭すぎて、悲しむには臭すぎて、怒ることしかできなくなった。我々は臭い、我々は臭い、我々は臭すぎて手淫しか救いがない。