あたらしい人間

私たちはどういった存在か、というよりも、私たちは私たちの今を越えうる者-あたらしい人間-を求め続けてきたのではないか。何も超越の話がしたいわけではない。私たちは鏡を見ようと本を覗くわけでも、映画を観るわけでもない。私たちは人間ではない人間を求め続けているのではないか。私たちという語を不用意には使いたくないが、私たちとは必ずしもあなたを含まないので安心してほしい。私たちとは私という存在自体が過去を示すということであり、私は性行為によって誕生した一介の生物にしか過ぎず、その又親もその親の性行為によって生まれた一介のツガイであるという意において。また今こうして施工された道を歩き、駅へ向かっているこの瞬間でさえ当たり前に私たちであり、こうして文章を書いてるこの瞬間でさえ他人の痕跡、成果物との織物であるから私たちである。小説、文章を読む際も書いた人、読んだ人が含有されるから私たちである。そして、なにより私たちには過だけではなく未来が含まれている。私は過去の織物でありながら、絶えず未来へ編まれ続けている。もはや私が私たちを使う理由は明白だ。私は私の話を独善的な普遍性に仕立てようという気はない。私は疑いようもなく私たちであるからそう言うまでのことだ。

私たちは人間性を模索し続けている。あたらしい人間を提示しようとし続ける。私たちは欠けている。私たちは更新し続けようとする。私たちはあたらしい人間性に目を輝かせる。私たちはいつもこのままでいいはずがないと思っている。私たちはいつも問題を抱え続けてきた。ころころ変わる道徳に振り回されながら、私たち何万年も!知らんけど!

私たちは問題を抱えている。私たち服との関係、距離感について。