何もかも燃えてしまったあとに

家が火事になったり、台風が来て部屋が飛ばされたりすれば、私はどの服を選んで逃げるのだろう。地震がきて部屋もろとも潰れるなら、何を選んで逃げるのだろう。

昔はよく考えた。もし家がなくなったら、自分は何を持っていくのだろう。昔は何もいらなかった。でも、果たして昔だけの話だろうか。きっと今もそれは変わらず、何もなくなれば清々しい気持ちになるだろう。ただ、暫くの間、そういった問いを自らに問うことはなくなっていた。

間宮くんから展覧会の話が来たとき、いまいち乗り気になれなかったのは、0の自分を想像できなかったからだ。0になるという発想自体持てなかった。家が火事になったら、地震が起きて全てなくなったら、何を選ぶのか。何かを選べば選択しなかったモノ全てを失うことになる。そんな自覚が欠落していた。展覧会をする上で生々しさはとても大事だ。腰の乗らない手打ちのパンチなら打つ必要がない。

私は清々しくなりたい。モノの所有幻想はモノによる支配でもある。今の私には隙間がない。偶然の生まれる隙間がない。雑草が生えていても、そのおもしろさに気づけない。

私は想像できる。清々しさのなかで、新たに服を纏うことができる悦びを。伸びた髪の毛を坊主にするような程度のことかもしれない。でも、そもそもだ、天災を待つ必要はなかったのかもしれない。服がなくなっても私がいる。だから笑っていられる。自分は階段を上がらなくてはいけない。今のままでは階段を上がれない。