日本現代クソ噺

 

アニメを観続けているとアニメ以外観たくないが、少し我慢してドキュメンタリーを観ればドキュメンタリー以外観たくなくなる。またアニメに関しても同じような毛色を望み、ドキュメンタリーにしろ同じような系統が観たい。これは多分、自分特有のものではなく、脳の構造の問題だろう。こういった現象を何と呼ぶのだろう。よく、自分の事柄を世間一般的なものとしたがるのは良くない兆候だと言われたりもしたが、それがイタズラに個性へ置き換わってしまった世の中においては、そう考える方が誠実な気さえする。本当は脳の構造は同じでも発露の仕方に千差万別あるのだろうから、個性と呼ぼうが最大公約的に構造のせいにしてもどちらでもいい気がする。わたしはだいたい他人にわたしを見出すことができるので、この世に起こりえるほとんどの犯罪であったり、偉業であったりが自分のことのように考えてしまう癖がある。そのことに覚えのある人もいるかもしれないし、まあもしかすると普遍の話なのかもしれないし、学校ないし家庭ないし、無自覚でもいいとは思うし。むしろ無自覚的なのか自覚的なのか、まあどちらでも感じてることは同じなのではないか、いや、違うだろう。

 

飽き性なわけだ。瞬発的な地球掘りで、深部へ到達することができるが、煮詰めたもんでもないわけだから結局すべてを忘れてしまう。毎度、過剰なインプットなわけだからリセットしてしまう方がいいだろう。それでも、忘れないことがある。印象だ。印象とは輪郭であり、抽象化されたものだ。わたしは抽象的な思考を操るのが得意で、アナロジーの指摘はべらぼうにうまい。その重ね方に差別も分別もないため、その分野のオタクの猛攻撃を受けるか、道徳的な問題まで担ぎ出されてしまう。わたしはそこにその人の限界が垣間見える気がする。その限度が人間性を定義しているのかもしれない、などと思うことが時折あって、わたしは概ね人間ではない気がするのだ、と極めて人間的な考えに至ることもある。

 

限度、限界、素晴らしいことではないか。限られた世界だからこそ、そこに花こそ見出せ、生き甲斐を感じ、充足感に溢れて高原のせいかつ。もはや無限の営みを見出せるだろう、行ってみせるだろう永久機関。わたしの場合は、限界がない。体力的な限界、今からプロ野球選手にはなれないだろう限界、プロサッカー選手になれないだろう限界。

 

たかが車で15分の距離を、バスで30分だろう距離をGoogleナビのクソは歩いて1時間50分だと教えてくれた。歩く気などなかったが、次のバスまで1時間ある、目的地に向かって歩いていけばいいだろうとわたしは歩いた。疲れればバス停で待って電車に乗ればいい。普段は車で一瞬で過ぎてしまうような何でもない道だ、この世には何でもない道以外に他の道があるとは思えないのだが、何か特別なものとは結局運の問題だといった自負も手伝って半ばクソを我慢しながらテクった。はじめ、大きなカタツムリに出会した。始まりとしては良い、いい風が三重の方から山を越えて吹いている。次は干からびたバナナの皮である。それから朽ちた女警官の看板、ああこれは個性だろう、私の。私が道中に見出した個性だろう、まあなんと個性とは石ころのようなものだろう!お前がもしこの道を歩けば、別のものに目を奪われたか、つまらなかったと唾を吐くか、歩くことを放棄してバスを待ったことだろう。私は1時間半歩いた。歩けば思考は整う、贅沢な時間だと思った、国道沿いの田舎道を時間も気にせず歩いている。ゴールありき、バスありき、そのような場合のみわたしは自由が与えられている気がするのだ。先行きの不安がない、呑気に車という乗り物による価値観の大転換について思考を巡らせ、カメラが登場してきたときの、当時の絵画シーン印象派だったり逆にカイユボットについてうろ覚えにつないで遊んで涙の産業革命か汗の産業革命なのか考えたりしたのだ。忘れかけていた便意がやってくるまで。ああ排泄欲なんて言葉があるらしい、汗を流すこと、おそらくは絵を描くこと、文章を書くこともそれに類するのだろう。血を抜くことも排泄欲にカウントされるらしい、要はまっさらになりたいと言うことだ。我々のように日々生きながらえれば、多少の労働で精神を病み、身体を凝らせるような弱き生物人間は絶えずゼロでありたいのだ。ああくそったれ、パンツにシミができる。俺は真のクソッタレになれる手前でコメリに出会しクソを捻った。爽やかに軽やかに。急に止まったものだから身体に熱がこもり不快な汗がわいた。不愉快だ。なぜ、俺はパンツの上にラップスカートなどを巻いて余計に暑くなっろうとしているのか、熱を閉じ込めようとしているのか、なぜ給食係のように頭に巻きつけたバンダナを汗が染みるといった理由で早々にバッグに閉まったのか。そもそもあれは汗止めみたいなものだろう。自熱で曇った90sサングラスの視界から狂った俺の姿を部分部分眺め、なぜサングラスをかけているのだろうと不思議に思った。サングラスをとれば脂染みている。クソがとクソをしながら言った。クソが、クソが、クソがクソがクソがクソがクソがクソが!クソが緩い、クソが!何回手にペーパー巻きつけんねん、クソが!ああクソが、緩い、こんなに歩いたのに神様、何様ですか?クソが!緩いんです。

 

トイレの個室から出れば汗がひいた。クソして洗ってない手でGoogleクソナビで目的地までの距離を測り直す。小刻みに10回目くらいだったろうか、あと20分かかるらしい。クソが!この馬糞が!遠いんじゃボケエとほたえ、ローソンの前で立ち止まれば後ろから車がやってきて俺の前に停車した。偶然にも磯田さん、目的地まで車で向かっている人だった。「乗っていきますか?」私は迷った、歩ききった気持ちで県民グラウンドへ乗り込みたいといった思いもあったが、流れに逆らうことを知らないMr.Childrenのような俺だから「ありがとうございます」と言って車に乗せてもらった。このいい加減さ、ああまさしく俺である、俺はどの道へ歩こうが俺的になる。お前もそうだろう、どの道へ行こうが、お前はお前的になる。なぜならお前はお前で俺は俺だからだ。