服を買わないようにしている。ちょっとくらい買ってもいいやと思いながらも服に手が伸びない。替わりにと言っては、なんだがアクセサリーなんぞをちょいちょいと買っている。額も大したものではない。ちょいちょいと買っているだけだから。

先日、クーラーがぶっ壊れた。Fujitsu製だった。年季の入った品物で、よく鳴いた。換気扇や冷蔵庫のように、よく鳴いた。部屋に堆く積まれた衣類の山を見て、もうどこへも行けないのではないかと思うようになっていたし、そう思うことにも慣れていた。でも、クーラーが壊れたお陰で、他人を招かないといけない羽目になり、渋々、山を動かした。収納する場所などない。あれば溢れる筈もない。とにかく、クーラーの下から他へ動かす必要があったのだ。

衣類の下には長年忘れられていた、プラケースがいてそいつが嵩を稼いでいた。45リットルのゴミ袋に襟の黒ずんだワイシャツや柔らかさを喪った靴下を放り込んだ。三袋出た。要らないもの、名残惜しいもの、高いもの、着ないもの。ものを所有することは叶わぬ夢だ。人間はなに一つ所有できない。そんなことを考えながらセコセコと働いた。

ものの魅力とどう向き合えば良いのだろう。常に持ち歩くことも叶わない、常に見ることも叶わない、写真で撮って眺め入るなら、それを持つ必要がどこにある。ものはビッチだ。ビッチは所有するという人類にとって永遠に叶わぬ夢が玉砕した際に、溢れる蔑称だ。苦し紛れの。

「わたしはあなたのものではない」以前付き合っていた女性にそう言われたことがある。その通りだ。わたしたちは、あやふやで曖昧で不確かな関係を共有するだけの繋がりだ。それを確かにしようとするあまり、わたしたちは硬直し、反乱狂になる。貪婪なわたしたちはものと向き合う。ものを見る。ものを手に取る。

その只中で心地よさはとても大切な感覚かもしれない。服にしてもそうではないか。この世界に制服以外の在り方が服にありえるならば、アイデンティティを示さないものとして、服があり得るなら心地よさはとてもラディカルだなと思う。

スタッズの棘は視線によって磨かれる。なんだあいつは、といった目が彼の姿勢を硬直させ、尖らせ、彼をパンク足らしめる。70年代の彼らは、視線によって更なるパンクスになっていったのではないか。友人はそれを荒波に切り立つ崖のように美しいと言っていた。言い得て妙だ。カウンターカルチャーは美しい。その美しさは自死と隣り合わせの袋小路にあって、そこから叫ぶ声こそがパンクだと思うし、ナマだと思う。

闘うことを放棄することはできない。でも、もっと心地よくなってもいいんじゃないか。再帰的すぎて、あえてすぎて、この世界は嫌味ったらしく在り続ける。それでも生きることを放棄せず、生きているのなら、心地よく闘えばいいんじゃないか。所有することも満足にできない、快楽だけじゃ生きていけない、喧嘩するだけじゃ生きていけない、中途半端なわたしたちに勝手に生きろ-Never mind-と怒鳴りつけたセックス・ピストルズの、ボーカル、ロットンは生きてる。

起きると身体が気怠く、肺も重い。部屋には何もないからと外へ飛び出しても何もない。イタイくらいの視線と嘲笑を浴びて、怒りが空を走り、煙草と退屈を転がす。空から雨が降り出す。街は静かになる。その心地よさ、誰しもが自分に閉じこもり、雨の音を聴く。わたしは顔の輪郭を知り、それぞれが顔の輪郭を理解し始める。